シュトゥットガルトの春

ここの続きです)

シュトゥットガルト放送響を指揮した一九八一年ライヴはDGGからも一部がリリースされているプロコフィエフの≪ロミオとジュリエット≫と同日の演奏です。七十歳前後というと指揮者としてもっとも脂の乗り切った時期とよく云われますが、この演奏の精緻な響きは、その方面におけるチェリビダッケの探求が行き着いたかたちを示していると云っても過言ではないでしょう。一楽章の[6:09〜]のやわらかい音色の弱音など、同じチェリでもミラノのときにはとうてい出せなかった味です。そして二楽章のデリケートで洗練されたひびきはこの演奏の白眉でしょう。

しかしながら、個人的にはミラノ盤により魅力を感じます。シュトゥットガルト盤においては、たとえばクレッシェンドひとつとってみても、始点としての最弱音と輝かしいクライマックスはあっても、その間をつなぐ昂揚感と情熱が今ひとつ希薄なのです。その点、技倆はさておくとしても、イタリアのオケマンたちには内面から豊かに湧き出るものがありました。

実はこの演奏をはじめて聴いたときは、期待が大きかった分、失望もかなりのものでした。何度か聴いているうち、これはこれとして愉しんで聴くことができるようになりましたが……

チェリビダッケシュトゥットガルト放送響の時代にもっとも細かい音楽をやっていたということがよく云われますが、そこには、自発性に乏しいオケにいちいち振りをつけざるを得なかったためという面もあるのではなかろうか、と最近思うようになりました。シュトゥットガルトミュンヘンの印象を分けるものとして、オケの個性やチェリの老いを指摘する声がこれまでは多かったように思いますが、わたしがもっとも強く感じる相違点はオケの自発性の有無です(そもそも、八十年代のチェリをつかまえて、どこがどのように耄碌していると云える輩などいるのでしょうか)。