ミトロプーロスふたたび

ついでにほかの指揮者のシューマンの一番も聴いています。

むかし、ミトロプーロスニューヨーク・フィルを振った春(DISCANTUS)を聴いたときは、金管が異常に突出しているとげとげしい響きに辟易して「これだからアメリカのオケは……」と思ったものでした。

今回ウィーン・フィルとのライヴ(一九五七年、ORFEO)を聴いて驚いたことには、演奏しているのがあのウィーン・フィルなのに、ニューヨーク・フィル盤と殆ど変わるところのないギラギラした響きの世界が繰り広げられているのです。これほどウィーン・フィルらしくないウィーン・フィルも珍しいでしょう。ひなびたヴィブラートのかかったオーボエがなかったら、ほんとうに弾いているのがウィーン・フィルなのかどうかからして怪しまれるくらい、ここには(ありきたりな評語で申し訳ないですが)このオーケストラならではのエレガンスや情感の豊かな流露が陰も形もありません。誰が振ってもウィーン・フィルウィーン・フィル、なこの面々をここまでギチギチに締めあげて金切り声を上げさせるミトロプーロスがタダモノではない指揮者であったことは確かでしょう。チェリ様がジェシー・ノーマンの歌う最後の四つの歌を評して「ゴビ砂漠の春」と痛罵したことはご承知の方も多いかと思いますが、ミトロプーロスシューマンはまさに火星の春といったところです。

ちなみにカップリング曲の家庭交響曲では、これはもう最初の一分を聴いただけでわたしみたいなズブの素人でも「あ、ウィーン・フィルだ」と分かるような演奏だったりします。豊かな陰翳、完璧な響きのブレンド、陶酔的なまでの歌いまわし……たぶん「この曲はキミたちの方が良く知っているからね」とか云ってオケを立てたのでしょう。すごーく気持ちよさそうに弾いています。シューマンでは暴虐の限りを尽くしたこの指揮者が意外にもウィーン・フィルとうまくやっていた秘密はこの辺にあると見ました。