ミラノの春
チェリビダッケは後年に至るまでシューマンの交響曲をしばしば取り上げましたが、第一番だけ、残念ながらミュンヘン・フィルとの録音を聴くことができません。うちにあるCDは以下の四枚です。
- シュトゥットガルト放送響(一九六三年ライヴ、ARLECCHINO)
- ミラノRAI響(一九六八年ライヴ、ARTISTS)
- 上に同じ(HISTORY)
- シュトゥットガルト放送響(一九八一年ライヴ、RE!DISCOVER)
チェリビダッケの細心の注意が行き届いて、曖昧糢糊としたところのないシューマンです。オーケストラの響きについてはもちろんのこと、見通しのよい構造とデリカシーのある歌いまわしが巧みなバランスで共存しているのも特筆すべきでしょう。両端楽章クライマックスの華々しく力強い昂揚など、沸き立つ情熱と同時に、後年のダイナミクスの魔術師――とりわけ壮大にして圧倒的なブルックナー指揮者としての――の片鱗もがそこからうかがわれるように思います。ミラノのオケもけっこう上手ですし、そのふくよかなひびきが曲の持ち味に合っていて、音楽の見通しのよさを単調さと感じさせない上で寄与するところ小さからぬものがあるでしょう。
これは些細事ですが、チェリには珍しく一楽章の提示部を反復しています(後述するシュトゥットガルト盤では省略)。とくにこの曲で律儀に反復するような理由があるのか知らん。わたしにはまるで見当もつきませんが、個人的には、こういう曲より「一番カッコ」が書かれているもの(たとえば未完成の一楽章)でリピートしてくれた方がありがたみがあるんだけどな、という気がしないでもないです(かといって、リヒテルのように、反復は例外なく遵守励行すべし、と思うわけでもありませんが……)。
両端楽章の瑞々しい推進力や二楽章の情感の高まりもさることながら、スケルツォがこれほど田舎くさくなく、しなやかで弾むようなリズムで弾かれた例は非常に稀でしょう。ミュンヘン時代に弾かれたほかの曲に比べればさすがに「若い」演奏なのですが、曲との相性でそれはむしろプラスに働いており、ラインや第四に優るとも劣らない出来です。