きょうのテレビ

ひさしぶりにショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第一番を聴きました。N響アワーで放映されたリサ・バティアシュヴィリの独奏、ジンマンが指揮したことし一月のライヴです。

お察しの通り、アナクロ人間のわたくしは大抵オイストラフ/ムラヴィンスキーの初演コンビか、オレグ・カガンの演奏を通じてこの曲に親しんできました。スコアもよう読まんことですし、それらの演奏から受けた印象と比較して、ということになるのですが、「こんなキレイな――キレイなだけの曲だったっけ?」というのが正直なところ。

オイストラフとカガンとを問わず、ソ連時代の演奏を特徴付けている強靭な緊張感がここでは殆ど感じられません。ヴァイオリニストはむやみと華美を誇らず、抑制の利いた音色でなかなか繊細にうたうところは好ましかったですが、まだ曲に歯が立っていないように思われてならず(たとえばカデンツァのクライマックスにおける上っつべりしたフォルティシモ)。ジンマン指揮のオケに至ってはキレイを通り越して、ふぬけています。

――だなんて書くと「今どきショスタコーヴィチの裏読みは流行らないよ」だの「『証言』の読みすぎじゃないの」だのと云われるでしょうか(それをいったら、ムラヴィンスキーとヴォルコフとは何の関係もありやしないはずなのだけど)。わたしとて、必ずしもソ連勢の解釈を金科玉条視するわけではありませんし、たとえばチェリビダッケブルックナーのように、作曲家の生前になされていた演奏の水準を刷新した「新しい時代のショスタコーヴィチ解釈」に対してはなから胸襟を閉ざしているつもりはない(むしろ、ひとりの異邦人として、それを待望する気持ちは非常に強いと思う)のですが、オイストラフ=カガンの演奏にあってバティアシュヴィリの演奏にない何かは確かに感じられる一方で、その逆も然りか――となると、これは非常に疑わしく思われるのです。

○ゲンリヒ・ネイガウスが、ショスタコーヴィチピアノ五重奏曲についてこんなことを書きとめていました。

あの曲については何も語れない。五重奏曲は私そのものだから――われわれの誰もが同じように感じているのだ。*1

何か、とは、蓋し――「意味」などではなく――深い共感なのです。

*1:ミハイル・リツキー『ゲンリヒ・ネイガウスの遺産』からの孫引き