アンドレ・チャイコフスキーのRCA録音

ショパンの後期マズルカの名演を遺したポーランドのピアニスト、アンドレチャイコフスキーによるモーツァルトのピアノ協奏曲第二十五番とバッハのクラヴィーア協奏曲第五番の録音(RCA)では、ライナー指揮のシカゴ交響楽団がバックを務めています。こんなマイナー・レコードが復刻されたのもひとえに指揮者のネーム・バリューによるものであっただろうことは疑えませんが、ハイフェッツブラームスの協奏曲のオケ・パートに吐気を覚えて以来ライナーは不倶戴天の仇敵と心得るわたしとしては、その点、複雑な気分です。

果たして(?)、DANTE盤の解説によれば"stormy collaboration"であったという両者の顔合わせですが、さぞや……と思わせるのがモーツァルトの一楽章の異様に遅いテンポです。

チャイコフスキーはある時ベームから共演の申し出を受けたはいいものの、「このテンポで弾くこと」とバッ○ハウスのレコードを押し付けられたことに反撥して(そりゃーあんな愚物と一緒にされた日には腹も立つことでしょう)せっかくのレコーディングのチャンスを蹴ってしまったというくらいだから、これがピアニストの意向に反するものであったとは考えられませんが、驚いたことには、彼はスタジオに到着するまでこの曲を一度も弾いたことがなかったといい、これには鉄面皮のライナーも度肝を抜かれたとか――それでも、結果としてこのテンポを自分のものにしたのはチャイコフスキーの方で、そうでなくても味も素っ気もないライナーの棒がここではいよいよ空虚に響きます。

聴き物はモーツァルトの一楽章のカデンツァでしょう。作曲家でもあったチャイコフスキーの腕が冴えわたる巧緻な書法もさることながら、その間だけは背後の雑音に耳を煩わされる心配のないのが有り難い――というのはまんざら冗談でもないのですが、それにしてもこれくらい、くつろいだ陽気さの感じられないモーツァルトも珍しいのではないでしょうか。仮に「ふとした拍子にはかない憂愁が垣間見える」のを世間一般のモーツァルト像であるとすれば、ここでふとした拍子に垣間見られるのは、思いつめたような心の闇です。多彩なニュアンスといい、ちょっとした歌いまわしの優雅さといい、このピアニストのみごとな技倆がよく現れたものとなっていますが、わたしは、晴朗な聴後感を求めて得られない不満を少しばかり感じました――贅沢な不満だとは承知の上です。

バッハは、ひさしぶりに一楽章を聴いて、おっと思いました。ここでは、不思議とモーツァルトほどはバックグラウンド・ノイズも気に障りませんし……しかしながら、ことさらに「歌」――すなわちレガート――を拒否しているかの感がある二楽章、そして三楽章は、蓋しグールドのバッハに対するコンプレックス*1に毒されたものであり、わたしとしては、モダン・ピアノの持ち味を生かしつつ、ブゾーニ版の第一協奏曲(リパッティのライヴ録音で皆さんお馴染みでしょう)におけるようなやり過ぎに陥ることなく、みずからの心を自然にうたわせて間然とするところのないエトヴィン・フィッシャーが懐かしくなりました……

ベームとの一件にも明らかなように、世渡り上手でなかったがためにグランド・キャリアを築くことができなかったチャイコフスキーですが、ことライナーに関しては、これ以上かかわりあいになりたくない、という気持ち、同情してしまうような(^^;

*1:これについても、DANTE盤の解説でちらっと触れられていますのでご参照あれ。