リフシッツのショパン

コンスタンティン・リフシッツは実演に接したことのあるピアニストです。そのときのプログラムのメインはたしかシューベルトソナタ第二〇番で、これは二楽章などけっこう本式におどろおどろしくて良かったですが、何曲か弾かれたショパンは、色々やろうとはしているけど中途半端で、どう弾いていいのか分からないという印象を受けた記憶があります。

今回視聴したプログラムは、モーツァルトのヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲をピアニストが自ら編曲したものと、因縁のショパンの、作品二十五のエチュード全曲です。昔の神童、ただの人――にはなっていないとか仄聞しますが、その成長ぶりやいかに。

モーツァルトの原曲を聴いた覚えがないので何ともですが恐らくは素直な編曲で、テクスチュアの薄さを感じないでもないものの、基本的に両手が別なことをしていため意外と馬鹿っぽい仕上りにはなっていません。二楽章と三楽章にはどうやらピアニスト自身によるカデンツァが挿入されているらしく、特に前者はいきなりのゲンダイオンガクっぽい響きにはっとさせられます。陰翳のうつろいに敏感に反応したピアノで、優雅さや愛嬌に乏しい分少々辛気臭いような気がする一方、編曲までするほどの深い思い入れもたしかに感じられたように思いました。

問題はやはりショパンエチュードで、いわゆる「曲げた指」の奏法で細かいパッセージワークに対応していたモーツァルトとはうってかわって、おそらくは意識的に指を伸ばして弾いているのですが、それがタッチの粒立ちの悪さや曖昧なコントラストといったマイナス方面にばかり作用しているように感じました。そもそもがラン・ランのように弾けて弾けて仕方ないといったタイプでもなかろうリフシッツですが、ここでピアノから引き出す響きの単調なことには考えさせられます。こういうピアノを聴かされると、奏法=テクニックと表現とは不可分であることをつくづく思い知らされる次第。