マリーラ・ヨナス

マリーラ・ヨナスというポーランド出身のピアニストは、数奇といえばあまりにも数奇な運命を辿ったひとで、わたしはその経歴を知ったうえで関心を抱いてCD(cf.→HMV)を取り寄せたのですが、仮にそのような予断がなかったとしたら、この演奏を聴いてどう思っただろうか、と考えることがあります。音は人なり、というと文学的にすぎる態度だと云われましょうが、こんな演奏をする人は一体どのような生涯を送ったのだろうかと思わずにはいられなかったのではないか、と思うのです。

(わたしはあえて彼女の経歴をここに記さないでおこうと思いますが、こちらに一通りの記載がなされています)

PEARLによる復刻CDの過半はショパンに割り当てられ、残りをシューマン子供の情景ヘンデル、ロッシ(……と記載されていますが、一聴する限り、これってラモーのメヌエットでは?)、シューベルトが占めていますが、聴き物は何といってもショパン、就中マズルカでしょう。

全体に若書きの曲が多く、マズルカの傑作(たとえばop.24-4やop.50-3、op.59の三曲など)があまり選ばれていないのが少し残念なような気がしますが、演奏がはじまるとそんな不満はすぐさまどこかへ行ってしまいます。大時代的なところがなく、確かな造形と力強い推進力とで以て端正に歌い進めるスタイルですが、音の背後に、底知れぬ深い闇の淵がぽっかりと口を開いているのです――声高に慟哭し、訴えかけようとしないだけに、それはいっそう不気味に迫ってきます。op.68-3のような長調の(しかも二十歳かそこらのショパンが書いた)曲さえもがあやうい翳に侵食されつつあり、いま咲いている花のうつくしさに酔うことができず、そのはかなさや虚しさが「見えて」しまった人の眼差しの昏さは、ひょっとすると短調の曲以上に聴く者を慄然とさせるでしょう(「シューベルト長調は耐え難いほどの絶望だ」とか云ったのはアファナシエフでしたっけ)。

強烈な個性の刻印が押されたショパンと比べてしまうと、シューマンシューベルトは、悪くないけど……といったところですが、ヘンデルト短調パッサカリア(第七組曲の終曲)はショパンに優るとも劣らない見事さで、ランドフスカのスタジオ録音とでは同じ曲を聴いているような気がしません。厳しく研ぎ澄まされたフォルムと内なる異様なまでの充溢感がぎりぎりのところで均衡を保っており、その切迫した悲愴美は、ヘンデルという作曲家に対する認識からして改めなくてはと思わせる体のものでした。

こちらにヨナスのディスコグラフィーが掲載されており、肝心のショパンで未復刻の音源が多いことに切歯扼腕の思いです。せめてマズルカだけでも全曲聴かせてもらいたいもの……