ムラヴィンスキーの第五交響曲

……というと、チャイコフスキーショスタコーヴィチを思い浮かべる向きが多いであろうと思いますが、ベートーヴェンの第五もそれに優るとも劣らぬ、ムラヴィンスキーならではの境地をいまに伝えるものです。

この巨匠の常で同曲異演が複数あり、なかでは唯一のステレオ録音である一九七二年のモスクワ・ライヴ(MELODIYA)の人気が特に高いようですが、わたしはというと、CD初出の七四年ライヴ(JVC/ERATO)でなければムラヴィンスキーの第五を聴いた気になれません。

この七四年ライヴは、骨と皮にも程がある、ストイックすぎる、という声が一部にある演奏で、たしかに誰にも受入れられるというものではないでしょう。しかしその厳しさは、ステレオ録音だとやわらいで響くというものでもありません――換言すれば、基本的にはどちらを聴いても満足できる者は満足すると思いますし、そうでない者はどちらを聴いたとしてもムラヴィンスキーにはついてゆけないと感じるはず。

ではその上で、お前は七四年ライヴの何がそんなに気に入っているのか、と問われたら、それはフィナーレ提示部二番カッコのティンパニにつきる、というのがわたしの答えです。これほどリズムの根源的なちからが生々しく、迫真的に伝わってくる瞬間を、ちょっとすぐには思い出せません。何度聴いてもそのたびに血沸き肉踊ります。第五交響曲の名演といったらそれこそ星の数ほどですが、これと比べたら、どのオケのティンパニ奏者も、ただ叩いているだけ――としか聞こえません。

これがかのイワノフの撥だとすれば、おそるべきソリスト集団であったレニングラード・フィルの名物男として通っただけのことはあると納得させられますが、七二年ライヴは残念ながらこれほどまでの冴えを示すにいたらず、蓋し、七四年ライヴこそイワノフとしても一世一代の演奏であった、とするほかありません――そして、この奇跡のような一瞬が、一点一画もゆるがせにせぬ全体のなかのパズルの一ピースとしておさまって、熱く脈動しているところに、ムラヴィンスキー/レニングラード・フィルの真骨頂を見る思いがします。ムラヴィンスキーのタクトが厳しいがうえにもきびしいものであったことはたしかですが、だからといってそれが冷たかったと思い込むべきではありますまい。それどころか、これほど白熱した第五交響曲を、他にあげるといってはせいぜい、ご存知フルトヴェングラーの一九四七年のライヴと、素人のエア・チェック録音というのがたまにキズなクレンペラー/ロス・フィル(ARCHIPHON*1)くらいしかわたしには思いつきません。

(以上、コルトーばかり聴いているので気分転換の巻)

*1:この二枚組CD、第五交響曲もさることながら、ブラームス=シェーンベルクの第一ピアノ四重奏曲の管弦楽版が壮絶きわまりない演奏です。