コルトーのショパン/バラード第一番(承前)

こちらの続きとなります)

すでに述べたとおり、一九二九年盤は旧バラード全集の一部をなすものですが、HUNTのディスコグラフィーによれば、第一バラードはほかの三曲が二九年の三月十一日に録音されたあと、この曲のみ同年六月七日に吹き込まれた演奏だといいます。

これはどういうことかと推測するに、第一バラードには二六年盤があることだし、最初はほかの三曲のみ録音する予定だったのではないでしょうか。だから三月に第二から第四までの三曲が録音された。しかるに、最終的には第一もあらためて吹き込むことになった、とわたしは見ます。

憶測をさらにすすめれば、それはレコード会社の要求によるものではなく(しからずんば第一も三月に録音されていてしかるべきでしょう)、コルトーが自ら再録音を希望したのではないでしょうか――蓋し、じぶんの古い録音に満足できなくなり、あたらしい解釈をレコードに記録しよう、というのです。

もちろん、これはHUNTのデータがほんとうに正しかった場合のみ考慮されうる想像であり、これまでも散々述べてきたとおり、この本に書かれてていることはハッキリいってそれほどあてになりません。*1それでも、虚心坦懐にふたつの第一バラードを聴いてまず感じられたのは、それぞれがそのときどきの気分の反映であるというよりも、再録音は旧録音のアンチテーゼなのではないか、ということでした。

奔放な旧盤に対して、新盤の印象はひとことでいって端正。はじめの一、二分を聴くだけで、様変わりしている点を数えあげるに事欠きません。たとえば、第一主題部でリズムをきっちり刻む左手。表情的な伸縮や強弱の抑揚も、皆無とまではいえないにせよ、かなり抑制的です。

それに加えてテンポの変化が格段に整理されてたものとなっています。二六年盤ではあまりに激しくテンポが動くため全体の構造のアウトラインがいささか見えにくくなっていたのですが、新録音は見通しがきわめてすっきりしたものとなりました。換言すれば、前者ではさまざまなテンポどうしのコントラストを強調することに意が置かれていたのに対して、後者ではテンポ間の有機的な連関と全体をとおしてのバランスとが重視されているのです(フレーズ内部における伸縮が控えめで、基盤としてのリズムがぐっと端正かつ静的なものとなっているのも、音楽の大きな流れをひきたてる上で一役果たしているでしょう)。

序奏が終わって主部に入り、第一主題から最初の絶頂へといたる運びひとつを取ってみても、その整然たる推移感はきわめて緻密な検討を経たのでなくてはありえないもので、数学的といってもいい論理と均衡とに支配されています。一例をあげれば、旧盤では[1: 20]前後からぐっと盛り上げて派手な見得を切りますが、新盤ではあえてそこの抑揚をおさえることによって[2: 00]からの長大なクレッシェンドを強調し、クライマックスの壮麗さを聴く者につよく印象づけるのです。*2

ここへ続く)

*1:ちなみに、新星堂盤のデータには、四曲とも三月十二日の録音とあり。

*2:こういうところを、野村光一翁は「いささかどぎついくらいの緊張と迫力」と呼んだのではないかしらん。