ためしに、冗談半分で……

先にものした一文を、漢字で書けるところはむりやり漢字にして、某丸○君で正字正仮名変換してみたのが以下に掲げるものです。もともとがたいがいの悪文ですが、こうすることによってより悪くなりこそすれ、少しでも良くなったとは、まっっったく思えません(^^;


塩野七生女史の『サイレント・マイノリティ』の頁を捲つて居たら、此んな句が目に留まりました。

この頃のワープロ作文の台頭には、漢字がやたらと使われているのだけでも、私は憤りを禁じえないでいる。ワープロを使って書いたものは、ひとめでわかるくらいだ。(太字部原文は傍點)

此の書物を初めて讀んだ頃は未だワープロやパソコンで物を書く習慣が無かつたので別に何とも思はなかつたのですが、此うしてブログ遊びなど為る様に成ると、最近は自分でも意識的に假名文字を交へて書く様に為て来た所だつたので、大いに我が意を得た思ひがしました。

假名と漢字の書き分けに就いて取分け神經を遣つて来たのは詩歌の詠み手達だと思ひますが、往昔の文章家に於いても、塩野女史をして上掲一文の筆を執らしめた花田清輝を初めとして、池田彌三郎や名譯者として知られる實吉捷郎等、スタイルとしての假名文字の多用が或る美觀を為して居る事に氣付かされます(ぐつと新しい所では吉田秀和翁が然うでせう)。學生の作文ぢゃ無いんだから、漢字で書ける物は須らく漢字で書く可し、だなんてナンセンス。「云ふ」「來る」「行く」位の字を書かうと思つて書けない訳でも無し、字面次第で隨意に書き分けるのは嗜みの一種と云ふ物でせう。

然う云へば「其れ」「此の樣に」「〜して仕舞ふ」と云つた文字遣ひを為る方が偶に居られますが、鷗外・漱石を氣取つて居るのかいなと思つたり思はなかつたり*1……此れでも(例へば)齋藤磯雄の絢爛たる漢文體に畏敬の念を抱く事に掛けては人竝以上なのですが、漢籍に對する素養らしい素養が伺へる訳でも無く、パソコンの文字變換に依存して書かれた四角張つた字面の文章は、餘り良い趣味だとも思へません。

此く云ふ私も氣樂且つ感覺的に雜文を物して居るのでどんな間拔けな事を書いて居るか知れた物では有りませんが、此う云ふ事に興味を持つ様に成つたのは、疑ふ可くも無く、年取つたからでせうね(笑)。パソコンで表記するのが面倒でさへ無ければ、もう少し勉強して歴史的假名遣ひで表記する様に為たいなあ、とか……

*1:戰前の物書きが漢字を多用したのは、一面、假名遣ひに自信が無かつたからでも有つた、と云つて居るのは福田恆在でしたつけ!?