一種のあとがき

前回は聴いたことのないCDを推薦するという宇野御大もびっくりの無責任っぷりが炸裂してますが、わたしが非マニア対象にチェリを語るということ自体に無理があるのでその辺はスルーしちゃってください。

……というか。
チェリ様が御存命中は海賊盤を使って布教(?)してたんだから時代は変わったものです。わたしも若くて青かったので、(先述した)悲愴をカラヤン・ファンに聴かせたところ一楽章の途中で「カラヤンだったらもう終わってる」とつまらないツッコミを入れられて激昂したりしてましたが、今にして思えば、んなもん聴かせる方が悪いですわな。

それはともあれ、先日のような記事を書いたのにはちょっとしたきっかけがあります。某サイト(どことは申しますまい)の持ち主はあれやこれやと、CD−Rの海賊盤まで手を出してチェリビダッケを聴き漁っているみたいなのですが、インプレッションを見ると非常にしばしば、「チェリビダッケの指揮ではこの曲のかくかくしかじかな要素が減殺されている」云々といった文句が見出されるのです。
わたしに言わせればこんな馬鹿な話もありません。高いお金を出して、音質劣悪な海賊盤をあれこれ買い漁るのもケチをつけるためだとしたら贅沢貧乏も良いところじゃありませんか。そんなつもりじゃない、期待はして買うのだ、と言うのでしたらまあ納得しないでもないですが、毎度毎度同じところでひっかかりを感じている氏が、だいぶ学習能力に欠けていることは否定しようがありますまい。

この人はチェリビダッケを聴いても、精緻な音色美や独自なテンポといった音楽の表面的な要素(チェリビダッケ言うところの「釣り針」)を云々しているだけで、チェリビダッケの本質的な部分に触れているとは思えません。チェリを聴いて心から感動したということも、たぶんないでしょう。換言すれば、チェリの聴き方が下手なのです。
(続く)