音楽の流れに身をゆだねて

(承前)

チェリ道の先達、齋藤純一郎氏はチェリビダッケ以前とチェリビダッケ以後」すなわち「どんな曲であれチェリビダッケの演奏を聴くと、それまで持っていた先入観念がガラッと変わってしまうという現象のこと」*1について語っておられますが、これはまさしく「禅」以外の何物でもありません。弟子の鼻っ柱をへし折ることに多く意を用いた禅問答的教育スタイルは記録映画でおなじみの方も多いでしょう。アレです。

たとえばバイロイトの第九やクナッパーツブッシュパルジファルのように、聴き手の各々がベートーヴェンワーグナーに対して抱いているイメージを求めても裏切られることのない、最大公約数的な理想像を体現しているかと思われる名演も世の中にはありますが、チェリビダッケはそのように聴かれることを断固拒絶しています。某サイトの管理人氏の言う「この曲の〜的側面」などチェリにかかれば痛罵の対象以外の何物でもないでしょう。

しかし、だからといってチェリが先入観のかわりに「真実」を押し付けているというわけではありません。無用な思い込みを抱き、分かったふりをしてしまうことによって何と多くのものが見えなくなっていたのかを、チェリビダッケは教えてくれるのです。

たしか鈴木淳史氏が「チェリしか良い演奏のない曲は駄曲」と放言していましたが、これは話が逆というものではないでしょうか。駄曲だと思い込んでいたればこそ、このような美しさが内包されていたことに気が付かないでしまうのだ、とわたしは思うのですが……論語読みの論語知らずということばもありましたっけ。

(ちなみにチェリによって大いに面目を一新した「通俗名曲」としては、展覧会、シェヘラザード、新世界、ローマの松、魔法使いの弟子などがあげられるでしょう)

実際のところ、チェリの聴き方、だなんてそんな大層なメソッドなどは存在しません。チェリの言うように、ただ音楽の流れに身をゆだねて――それだけのこと。ただしその際先入観は足枷以外の何物でもありません。「主体的な判断」のつもりが先入観の束縛でしかない例もあります。わたしたちは、考えるのではなく感じることを通して、思考による以上に自由に、もっと遠くへと至ることができるのです。

「きっかけ」の話が大分長くなってしまいましたがそろそろ本題へ(これが「あとがき」であるからには)。

以上のような経過を通じて、チェリビダッケ体験において肝要なのは「何を聴くか」ではなく、どのように聴くか、だとわたしは考えるようになりました。というのも、人間は(たとえば)リスボン・ライヴを聴いて「こんなのブルックナーじゃない」ということにさえ喜び(知的優越感)を抱くことができる厄介な生き物だからです。かくも固定観念はわたしたちの内に抜きがたく、わたしたちの判断はそれによって支配されています。ときには判断それ自体でさえあります。

それでは「チェリビダッケ以前とチェリビダッケ以後」を経験するに際してもっとも捨てやすい先入観は、といえば、ネガティヴな評価が上げられるでしょう。つまらないと思っていた曲をすばらしい演奏で聴いたとき、その感動を否定するほど気難しい人はあまりいないと思います。チェリの仇敵ヨアヒム・カイザーは「ミュンヘンをフランス音楽専門のオーケストラにしてしまった」と非難していました(何とすさまじい中華思想!)が、裏返してみれば、チェリのラヴェルを否定することにはさすがにためらいを覚えたと見えないでもないでしょう。

というわけで、はじめてチェリを聴く人もさることながら、聴いたことがあるけどピンと来なかった人、反感を覚えるのみだった人には、自分が「こんな曲……」と思っている曲をチェリビダッケで聴いてもらったら、チェリに対する感想も少し変わってくるのではないでしょうか。ローマの松はたしかにブルックナーの第九交響曲ほど深遠な内容を誇るわけではないかもしれないけど、食わず嫌いするには惜しいのではなかろうかと思えたら、先入観ひとつ分だけわたしたちは自由になることができたということだと思います。その上でよろしかったらもっとほかの演奏も聴いてみてください。

*1:DGG正規盤(R.シュトラウスレスピーギ作品集)解説より