ギーゼキングのダヴィッド同盟舞曲集

(承前)

これは『アラウとの対話』の中で「たった一度聴いたこの曲の名演奏」とまでアラウが褒めちぎっていたのに興味を抱いて聴いたものです。

この曲集には良い演奏があまり多くないように思いますが、問題があるとしたらそれは、物語性(謝肉祭、子供の情景)もなければ主題の統一性(交響的練習曲)もなく、曲によってはほんの一分たらずしかない抽象的な十八の舞曲に、まとまりと全体としての説得力を付与することの難しさにあるでしょう。ギーゼキングは一瞬たりとも途切れることのない集中力によってそれを成し遂げています。

不思議なことにシューマンではギーゼキング特有の木で鼻を括ったようなフレージングがすっかり影をひそめます。各曲は大胆なコントラストをつけられていますがわざとらしさや流れの悪さを感じさせられることはありません。霊的な音色のピアニシモで夢に溺れるかのように奏でられるゆったりしたナンバーは、骨まで蕩けそうなケンプの陶酔(DVDのブザンソン・ライヴが逸品)と好一対をなしますし、フロレスタンの曲も、たとえば第十三曲のもの狂おしい疾走には華々しい死地を求めて突進する騎士を彷彿とさせるものがあり、凄絶な悲愴美のきわみと言っても過言ではありません。

そして最後のクライマックスが第十七曲で第二曲の主題が再現するくだりで、穏やかな夕暮れを思わせる回顧的雰囲気がだんだん悲哀の色濃くなってゆくあたりの闇の匂いには唸るしかありません。ギーゼキングの演奏で聴くと、にぎにぎしいフィナーレを持つ謝肉祭や交響的練習曲以上にこの曲こそがシューマンの内面の生々しい劇を映していることに気づかされます。

わたしが愛聴しているのは一九四七年録音のFORLANE盤で、擬似ステレオというのは気に食いませんが、まあ結構上手く出来ていて、生々しい音色です。鼻息も実にリアル。現行のARCHIPEL盤は、もしかしたら実は同一録音なのかもしれませんが、一九四七年録音より少々大人しい演奏に聴こえ、復刻も大分艶消しでした。