私的十大レーベル(三)

今更なんですが十も思いつくんだろうか……

というわけで今日はBIDDULPHとPEARLでも。

守備範囲が似ていることに加えて同じ頃全盛期を迎えたという共通点が二つのレーベルにはあります。円が一ドル七十円台後半まで行った一九九五年前後がそれにあたるでしょう。タワーの黄色い値札が千五百円かそこらで、パール、ビダルフもその辺の値付けだったと思います。

この二社はSP復刻の老舗として名高いです。パールがよくも悪くもブリティッシュ・テイストの漂う幅広いラインナップ(ギルバート・アンド・サリバンがいっぱい。なーんにも嬉しくないです)を誇ったのに対してビダルフのリリースは往年の弦楽器とピアノものにほぼ照準を合わせたものでした。

同時期でも音質はあんがいと傾向が異なり、パールが何も足さず何も引かない式であるとすればビダルフのはもう少し聴きやすさを重視したもので、近年のナクソスヒストリカルなどの復刻に通じるものがあるでしょう(……も何も、マーストンだのオバート=ソーンだの、同じエンジニアが復刻してるんだから当たり前ですな)。パールの復刻はモノトーナスだ、という説もあるのですが、ノイズに慣れさえすれば音自体の再現性は高いとわたしは思います。

パールに関しては、往年の巨匠たちを聴く上でライブラリ的役割を果たしてくれたことに感謝しなくてはいけません。クライスラーやパデレフスキもさることながら、普通一般の人からすれば骨董を通り越して歴史的学術的価値しか見出せないであろうような録音まで復刻してくれたことは大いに徳とするに足ります。具体的にはブランチ・レーベルのOPALから出ていたラウル・プーニョの全録音とか。パハマンをして「わしより上手い」と言わしめたイレーネ・シャーラーのショパンエチュード、なんてのもあります(パハマンをして――というのがどれだけ多くの人の聴く気をそそるのやら……)。そしてTHE RECORDED VIOLIN。フーベルマンの師匠のへールマンを聴いて「ブラームスの協奏曲のあの濃密なカデンツァを書いたのはこんな人だったのか」と確認できるというのはなかなかにオツな愉しみであります。

わたしがヒストリカルの底なし沼に足を突っ込むきっかけになったのが、パール盤のコルトーシューマンでした。馥郁として深沈たるコルトーの音色は、わたしがそれまで知っていたアシュケナージや何やと同じピアノを弾いているとは思えないような美しさで、瞬間にして、自分が聴きたい音楽はこれだったのだ、と悟ったのです。

そしてコルトーを集める過程でめぐり合ったのがビダルフ。ビダルフ盤のメンデルスゾーンのトリオにはしびれましたねえ。これを聴いてティボーもカザルスも聴いてみなくては、ということになり、以降は際限もありません。泥沼に頭まで漬かってエラ呼吸してるようなもんですわ。

ビダルフといえばヴァイオリンで、ヴァイオリンといえばエネスコですよあなた。

チェリ様、コルトー、エネスコ、がわたしの神です。

ベートーヴェンの協奏曲は誰が何と言おうとわたしにとって最高の演奏であり、こんな演奏(……ということはさすがに自覚しないでもない)を出してくれたビダルフには感謝の言葉もありません。

きわめて旺盛なリリースを誇り、膨大なカタログを抱えていた両社ですが、ある時期を境にして社勢が著しく衰えたような気がします。当時、二社でプロデューサー的役割を果たすこと大なるものがあったアラン・エヴァンスとマーストンが独立して復刻レーベル(ARBITER、MARSTON)を立ち上げたことと無関係ではありますまい。まあ、それ以前に出そうというものは出し尽くした、ということなのかもしれませんが……わたしからすれば寂しい限りです。

パールはどうも半休眠状態らしいのですが、先年ビダルフは突如復活を遂げてシゲティ、エルマン、カミラ・ヴィックスと相変わらずなラインナップを繰り出してくれました。最近音沙汰を聞きませんが、ここに頑張ってもらわないとなかなか聴けそうにない音源がまだ沢山あります(たとえばシゲティとヨーゼフ・レヴィーンが組んだシューベルトの幻想曲)。息の長い活動を祈念するのみです。