フルトヴェングラーのブルックナー(一)

毀誉褒貶の甚だしきもの、と書きつければ最初に思い浮かぶのがフルトヴェングラーブルックナーです。一昔前はそれこそ「毀」「貶」一辺倒の評価でしたが、近年一部熱狂的ファンによる巻き返しが見られるようになりました。

しかるに、好悪のベクトルこそ正反対を向いているものの、彼らの評価は「フルトヴェングラーの個性が強烈に現れたブルックナー演奏」という限りにおいて何ら異なるところはないように思います。甲が「何を振ってもフルトヴェングラーになってしまう」とそれを忌めば乙はそれがいいんじゃないかと反駁するといった具合。

その「フルトヴェングラーらしさ」なるものが、わたしの考えでは、そもそも疑わしいのです。

一例を挙げましょう。宇野功芳氏は、フルトヴェングラーベルリン・フィルが同じ一九四九年に演奏したふたつのブルックナー交響曲に対して、第七はフルトヴェングラーらしくないのが良い、第八はフルトヴェングラー節が音楽本来の持ち味を台無しにしている、と対照的な評価を与えたそうです(手許に資料が無いのでうろ覚えですが)。

さあいかがでしょう。

繰り返しになりますが、同じ指揮者とオーケストラが、同じ年に同じ作曲家の交響曲を演奏しているわけです。片方がフルトヴェングラーらしくてもう片方はらしくないとは一体どういうことなのでしょう。そこに偏差が現れたとしても、ことは演奏家の体臭の多少ではなく、曲に応じた指揮者の振り分け、とみなす方が数層倍妥当だとわたしは信じます。

わたしに言わせれば、宇野氏のたまうところのフルトヴェングラー節とは巨匠の本質に対する洞察から導き出されたものではなく、畢竟、氏が演奏から聴き取った(そして、毛嫌いした)表面的な特徴でしかありません。

たしかに、あんなブルックナーを振った指揮者はひとりフルトヴェングラーしかありません。バの字の猿真似など論外。しかし、だからといってそれがフルトヴェングラーの個性の現れなのか、となると、必ずしもそうとは思えないのです。

世人が「フルトヴェングラーらしさ」と呼ぶところの特質の因って来るところを巨匠の本然の外に探すところから、フルトヴェングラーブルックナー演奏の再評価はほんとうに始まるのではないかとわたしは考えています。