フル様

両立はむずかしい?

(コルトーのほうはちょっとひと息……)ブルックナー指揮者はマーラー振りたりえず、その逆もしかり――なんてことが世にいわれますが、その伝で、ハイドンとモーツァルトも両立しがたいレパートリーらしいです。いわれてみれば、とまず思い浮かぶのはフルトヴ…

エロイカとトロンボーン

ご案内のとおり、ベートーヴェンの第三交響曲はトロンボーンが編成のうちに入っていません。先日ブロムシュテットがN響に来演してこの曲を取上げたときは前プロが同じ作曲家の第五ピアノ協奏曲で、これまたトロンボーンを必要としない楽曲でした。その辺は、…

シューリヒトのブルックナー/第五交響曲

シューリヒトが指揮するブルックナーの第五を聴きました。ウィーン・フィルとの一九六三年ライヴで、DGGから一度出たきり「幻の名演」と一部で噂になっていた録音です(ALTUS)。スサマジイ演奏でした。個人的には、良くも悪くも――と付け加えたい誘惑に駆ら…

フルトヴェングラーのブランデンブルク協奏曲第五番

ブランデンブルク協奏曲といえば忘れては不可ないのがフルトヴェングラーの弾き振りでしょう。巨匠もこの曲を気に入っていたものと見えて、録音が二種類遺されています。オケはいずれもウィーン・フィル、フルートはニーダーマイヤーですが、ヴァイオリンが…

引用者はウソツキだ

オーパス蔵から出たブルックナーの第五の戦中ライヴに末廣輝男氏が『ブルックナー戦時録音』という一文を寄せておられます。今回はこちらを話のタネにさせてもらいましょう。ここで末廣氏は日本におけるフルトヴェングラーのブルックナー演奏に対する評価は…

そういえば

ブルックナーの交響曲でもとりわけ難解といわれる第五と第九の二曲の改訂版が、とりわけ「改竄度」が高くなっているのは、偶然としては出来すぎの部類に入るのではないでしょうか。第五に関しては先にチラと触れましたが、第九の改変度の高さも驚くべきもの…

第五つながり

今更云うまでもないことでしょうが、わたしはチェリ教徒なのでもちろんブルックナーもチェリ様がデフォです。先日聴いた一九八六年ベルリン・ライヴの第五ですが、「ああ、チェリだ……」と感じ入ったのは一楽章のちょうど真中辺、[11:42]以降でした。あるかな…

余談

もうひとりの「伝統主義者」クナッパーツブッシュが改訂版にこだわり続けた理由をある人は「ワーグナー的な響きが趣味に合うから」といい、また「ハースみたいなナチの犬の仕事が気に食わなかった」とする意見もあります。それぞれに、もちろん真実をついて…

フルトヴェングラーのブルックナー(十五)

一九五一年の第四(わたしが聴いているのは十月二十九日ミュンヘンでのライヴです)はブルックナー・ファンにはあまり評判のよろしくないレーヴェ版による演奏ですが、「改訂度」が第七、第八の例に比べて著しい分フルトヴェングラーの解釈と「初版的なるも…

身も蓋もない話

こんなことを書いているのでフルトヴェングラーのブルックナーばかり聴いていますが、たまにチェリビダッケやクナッパーツブッシュのブルックナーを聴くと、これがもうどうしようもないくらい素晴らしく聴こえて仕方ありません(笑)。実際のところフルトヴ…

フルトヴェングラーのブルックナー(十四)

フルトヴェングラーの第五には一九四二年ベルリン・フィル盤と一九五一年ウィーン・フィル盤とがあります。前者は、アンチには総スカンをくらい一部ファンの喝采をほしいままにするという典型的「フルトヴェングラーのブルックナー」ですが、後者については…

フルトヴェングラーのブルックナー(十三)

これまでフルトヴェングラーのブルックナー演奏が論じられる際、解釈偏差について語られることはあまりにも稀でした。アンチはどれを聴いても拒絶反応を示すのみですしフルキチは何もかもいっしょくたに礼賛。せいぜい一部の演奏に巨匠の衰えを指摘する者が…

フルトヴェングラーとブルックナー(十二)

遺された録音の使用版を見ますと以下のように一見赤と青が満遍なく混ざり合っているように見えます(ちなみに、同一プログラムの別演奏なら同じ版を使っているに決まってるので省略していますがあしからず)。 1941 Sym.No.4 (BPO; 断片) レーヴェ版 1941 Sy…

フルトヴェングラーとブルックナー(十一)

遅きに失した感がありますが、フルトヴェングラーとブルックナーの版問題をめぐるトピックスを編年順で整理しました。この耳で聴いて確認することのできる録音資料、テキストに加えてハースたちによる原典版の出版年も参考までに付します。 1934 第九レーヴ…

フルトヴェングラーのブルックナー(一〇)

そう考えるとこの演奏で使用版が変更された背景にはもっと積極的な、改訂版で演奏したいというフルトヴェングラーの意思が働いていたとみなすのが自然であるように思われます。蓋しハース版に改訂的表現を持ち込むだけではもはや巨匠の表現欲求は満たされな…

フルトヴェングラーのブルックナー(九)

巨匠は一九五四年に第八交響曲を指揮していますが、これ、近年に至るまで演奏の真偽をめぐって議論が繰り広げられていた問題の録音です(現在はフルトヴェングラーの真正演奏であると決着がつきました)。一九四九年の演奏と比較してまず違うのは、こちらで…

フルトヴェングラーのブルックナー(八)

フルトヴェングラーはブルックナーに対して並々ならぬ情熱を傾けていましたが、この作曲家の音楽構造に対してはある意味で懐疑的だったようで、手記には『法外に長い作品(ブルックナー)に対する聴衆の嫌悪は、もっともな根拠を有している』などといった記…

フルトヴェングラーのブルックナー(七)

唐突に聞こえるかもしれませんが、四十年代のフルトヴェングラーはハースの呪縛にとらわれていたのではなかろうか、とわたしは推測しています。改訂版と原典版の違いといえば管弦楽法やカットのことが専ら話題に上りますが、ハースが従来版の表情記号だの漸…

フルトヴェングラーのブルックナー(六)

裁量の当不当という見地からフルトヴェングラーの版選択を検討することによって納得のゆく事象がいろいろあります。ご承知の通り第五、第九は原典版、第四、第七は改訂版を使っていた巨匠ですが、たとえば第四の三楽章でレーヴェによるカットを復元したかと…

フルトヴェングラーのブルックナー(五)

この辺でフルトヴェングラーと版問題の関係を探る上での原資料を整理してみます。 一九三四年の手記(白水社『フルトヴェングラー 音楽ノート』十二頁)……(a) 一九三四年の講演『アントン・ブルックナー』(白水社『音と言葉』一〇九頁)……(b) 一九四一年の…

フルトヴェングラーのブルックナー(四)

件の手記が記された年にフルトヴェングラーは第九を指揮していますが、おそらくレーヴェ版による演奏であったと思われます(このコンサートの準備として譜読みした感想がああだったとみなすのが自然でしょう)。しかし、何度も述べてきたことですがわたした…

フルトヴェングラーのブルックナー(三)

それではどうしてアードインはかかる錯覚に陥ったのでしょうか。ひとつにはフルトヴェングラーが一九三九年に行った講演『アントン・ブルックナー』による影響があるでしょう。ここでフルトヴェングラーは原典版、ことに第五のそれを高く評価しているため、…

フルトヴェングラーのブルックナー(二)

たとえばコルトーのショパン、シューマンというと「時代がかった解釈」と指弾なさるモダーンな趣味に溢れた聴き巧者の方々が、ことフルトヴェングラーのブルックナーに関しては演奏された時代背景に対する考慮を等閑に付しておられるような気がわたしにはし…

フルトヴェングラーのブルックナー(一)

毀誉褒貶の甚だしきもの、と書きつければ最初に思い浮かぶのがフルトヴェングラーのブルックナーです。一昔前はそれこそ「毀」「貶」一辺倒の評価でしたが、近年一部熱狂的ファンによる巻き返しが見られるようになりました。しかるに、好悪のベクトルこそ正…