フルトヴェングラーのブルックナー(五)

この辺でフルトヴェングラーと版問題の関係を探る上での原資料を整理してみます。

なかでもフルトヴェングラーの見解がもっともよく現れた資料が、(c)だと思います。

  • 第四の印刷原譜(ブルックナー自署)を「オリジナル原稿」として重視
  • これまでのブルックナー普及における改訂効果を措定
  • 出版作業に伴う改訂におけるブルックナーの主体性を否定する「歪曲神話」への批判
  • 第二、第三(?)のオリジナル原稿再構成における「勝手な処理」への批判
  • 第五に関しては「完全に原典版に有利な結果」、様式的統一等を原典版の優越点として認める
  • 原典版と改訂版の相違は「紙の上に書かれていることと、実践との違い」

以上がその要旨ですが、最後がポイントでしょう。換言すれば、改訂行為を巨匠は現場の裁量権とみなしているわけで、実のところ、改訂版が「違法」か否かに関しては、フルトヴェングラーの判断は一貫して「違法ならず」だったのだとわたしは思います。

たとえば、師の交響曲の普及のために良かれと思ってなされた弟子たちの改訂の意義はどの時点においても重く見られていますし、(a)のブルックナーの第九交響曲は遠い将来までレーヴェ版を通して生命を維持することであろう』という結語が、(b)で『今なお刊行中のこれらの原譜が未来に対してどのような意味をもつかは、現在ではまだ見きわめもつきません』と曖昧にぼやかして繰り返されていることにも注意しないわけには行かないでしょう(必ずや臨席していたであろうハースは、この言をいかなる思いで聞いたのでしょうか)。

そのかわりフルトヴェングラーは裁量の限度、当不当に関しては逡巡し続けたと見えます。特に第八交響曲の演奏版を検討すればそれが明らかになるでしょう。

  • 一九三九年、ハース版世界初演……さすがに手を入れることなく、そのまま演奏したはず
  • 一九四四年、VPO……第三楽章でハースによる第一稿の引用をカット
  • 一九四九年、BPO……フィナーレでドラが鳴ってます
  • 一九五四年、VPO……改訂版

原典版ブルックナーを聴くのが当たり前のことになった現代の聴き手は改訂版を頭ごなしに「悪」(せいぜいよく言って必要悪)と決め付けてしまいがちですから、そのようなアタマでフルトヴェングラーの版選択を検討しようとするとどうしても割り切れない部分が出てきます。だからこそ巨匠を原典版主義者と早合点する者が現れる次第ですが、それでは見えてこないものがあるとわたしは思います。