フルトヴェングラーのブルックナー(六)

裁量の当不当という見地からフルトヴェングラーの版選択を検討することによって納得のゆく事象がいろいろあります。ご承知の通り第五、第九は原典版、第四、第七は改訂版を使っていた巨匠ですが、たとえば第四の三楽章でレーヴェによるカットを復元したかと思うとハース版による第八(一九四九年)ではアダージョの第一稿引用をカットしたりフィナーレでシンバルを鳴らすなど部分的なシャルク版回帰を果たしていたりと、一筋縄ではゆきません(当時はノヴァーク版がまだ出ていなかったので、三楽章のカットも「初版回帰」に当たる、はず)。行き過ぎと思われる改訂を独自に修正したり、原典版に改訂的表現を持ち込んだりする独自の判断は、「裁量権の限度」のなかで最大の演奏効果を追求するフルトヴェングラーの試行錯誤のあらわれとみなされるべきでしょう(シューリヒトやヨッフムなども時々やってますがフルトヴェングラーほど徹底してはいません)。

ところで、フルトヴェングラーブルックナー演奏が、録音の残された四十年代と五十年代とでは随分様変わりしていることは広く知られる通りですが、その解釈の変化はこれまで専ら巨匠の気力の衰えによって説明されてきたように思います。換言すれば、根本的なところでは変化していないが気合の入り方に差がある、と。

しかし、たとえば第八の場合演奏版が違うのに指揮者が同じアタマで振っているのかという疑問がわくのはわたしだけでしょうか。

これまでさんざん版問題に拘泥してきたのは、ひとつには感覚的な尺度(たとえば「フルトヴェングラーらしさ」だの「あまりに人間的なドラマ」だの)ではなく成る丈具体的な事実を通じてフルトヴェングラーブルックナーについて考察したいということもあるのですが、巨匠の版選択のありようが演奏の解釈偏差と無関係ではないように思われるからです。裁量権の限度、すなわち原典版の美点(様式的統一、バロック的・合唱的な楽器法など)と長らく親しんできた改訂版の演奏効果との間の均衡点を探ろうとする意思を巨匠のブルックナー観と切り離して考えることの方がよほど不自然というものでしょう。