フルトヴェングラーのブルックナー(七)

唐突に聞こえるかもしれませんが、四十年代のフルトヴェングラーはハースの呪縛にとらわれていたのではなかろうか、とわたしは推測しています。

改訂版と原典版の違いといえば管弦楽法やカットのことが専ら話題に上りますが、ハースが従来版の表情記号だの漸強漸弱だのの類を癇症に排除したことも忘れるべきではありません。カルラ・ヘッカーはブルックナーにおいて最も難しいのは、なめらかで、落ち着いたイン・タクト演奏(拍節を保持する演奏)である。何らルバートはない』『ブルックナーは強調する記号をふんだんに使用した。だからそれ以上強調することをしてはならない』(*1)というフルトヴェングラーの言葉を伝えていますが、紛れもなくこの方面でのハースの影響を感じさせます。第五のリハーサル中の指示だそうですから、一九四二年のことですかね。

その影響はどの演奏にも多かれ少なかれ現れていると思いますが、ここでは一九四九年録音の第八(わたしの手許にあるのはゲネプロと本番との混成ヴァージョンだというDANTE盤)を取り上げてみたいと思います。世に云うところの「フルトヴェングラーらしさ」がもっとも顕著に現れたブルックナー演奏のひとつとしてアンチからは強い反感を買い、一部熱狂的ファンには諸手をあげて迎えられた演奏です。

その「フルトヴェングラーらしさ」とは一体何のことかと云いますと、海老忠氏の定義を借りれば「同一音型の繰り返しやクライマックスでは、必ずアッチェレランドし、メロディアスで緩徐な部分は濃厚に歌い上げるというわかりやすい手法」(*2)のことだそうで。

劇的なテンポの起伏、アッチェレランドの頻出ということに関しては、たしかにその通りかと思います――ですが後半に関してはどないなもんでしょう。

というのも、フルトヴェングラーはたしかにテンポを激しく動かしているのですが、それがここでは専ら音楽ブロックの結尾部やクライマックスへ向かって昂揚する過程に限定されていて、フレーズ内部における伸縮は意外なほど抑制されているからです。

この演奏、テンポの緩急のコントラストゆえに速い部分は無類の迫力を誇りますが、たとえばフィナーレの五分前後からのきわめて美しい部分など、歌もなければリズムもない棒弾きになってしまっています。これがベートーヴェンのリハーサル(ストックホルム・フィルとのレオノーレ第三番)では「ニヒト・インテンポ!」と絶叫していたあのフルトヴェングラーかいなと思うほかありません。

わたしには、元来改訂版的音楽観の持ち主であったフルトヴェングラーが自分を殺してハースの主張に従った結果が、この直線的でフラットなフレージングだったように感じられるのです。


(*1)……『フルトヴェングラーブルックナー』(渡辺護DGG国内盤の解説)より
(*2)……『クラシック名盤&裏名盤ガイド』(洋泉社)より