フルトヴェングラーのブルックナー(八)

フルトヴェングラーブルックナーに対して並々ならぬ情熱を傾けていましたが、この作曲家の音楽構造に対してはある意味で懐疑的だったようで、手記には『法外に長い作品(ブルックナー)に対する聴衆の嫌悪は、もっともな根拠を有している』などといった記述がなされています。

この聴衆に対する配慮が、弟子たちによる改訂の主要動機であったことは疑われません。改訂版はブルックナー特有のゴロゴロした音楽を滑らかに推移させるなどして(当時の耳に)聴きやすく仕立てましたが、良かれと思ってなしたにもかかわらず行き過ぎに陥った部分がないとは云えないでしょう。

清教徒的な潔癖を以てそれを払拭しようとしたのがハースたちで、第一次原典版ではブルックナーの音楽ブロック構造がむしろ強調されてさえいるのです(戦後のノヴァークはハースほど神経質には初版の発想記号等を消し去ろうとしませなんだ)。

第五のフィナーレにおけるハースの仕事に対する高い評価や、第四の三楽章でレーヴェによるカットを復元している(先述)ことからも分かるように、フルトヴェングラー原典版が明らかにした楽曲本来の構造を認めるに吝かではありませんでしたが、かといってそれがそのまま聴衆の理解に耐えるとも思ってはいませんでした(先に挙げた一文は一九四五年のものです)。

鈴木智博氏は巨匠の「いつものスタイル」を「ブルックナーになじみのない聴衆にもわかりやすいような、作品への懸け橋として意図した演奏」(*)であると指摘しておられますが、蓋し巨匠のアッチェレランドの多様と直線的なフレージングは、各主題間のコントラストを強調して聴き飽きさせず、かつ音楽のアウトラインをはっきり描き出すという、シャルクやレーヴェとは違ったやり方でブルックナーの音楽構造を聴き手にわかりやすく伝えようと腐心した結果なのです。


(*)……『クラシック名盤 この1枚』 (知恵の森文庫) より