そういえば

ブルックナー交響曲でもとりわけ難解といわれる第五と第九の二曲の改訂版が、とりわけ「改竄度」が高くなっているのは、偶然としては出来すぎの部類に入るのではないでしょうか。

第五に関しては先にチラと触れましたが、第九の改変度の高さも驚くべきもので、たとえばクナッパーツブッシュ/ベルリン・フィルの一九五一年ライヴを聴けば、第一楽章の[11:05]ではレーヴェが経過句を「作曲」していたりします。

これに関しても、そのような編曲行為を頭から否定するのではなく、なぜレーヴェはそのようなことをしたのか推察すれば、やはりそこで音楽の流れが断ち切られてしまうことを危惧しての老婆心と見るのが妥当でしょう。

まあ余計なお世話といってしまえばそれまでなのですが、レーヴェと問題意識を共有しようとすることによって見えてくるものもあるんではなかろうかとわたしは思う次第です。わたしがチェリ様とフル様の信者だからことさらにそう思うのかもしれませんが。

それにしてもチェリ教徒はフルトヴェングラーをよく聴きますがフルキチはチェリビダッケをマガイモノ扱いします。これは一体どういうわけでしょうかねえ。チェリビダッケフルトヴェングラーの問題意識を独自の流儀で継承していたことが分からないとは。フルトヴェングラーの何を聴いてるんですかアナタは、と云いたくもなり。