第五つながり

今更云うまでもないことでしょうが、わたしはチェリ教徒なのでもちろんブルックナーもチェリ様がデフォです。

先日聴いた一九八六年ベルリン・ライヴの第五ですが、「ああ、チェリだ……」と感じ入ったのは一楽章のちょうど真中辺、[11:42]以降でした。あるかなきかの繊細微妙なクレッシェンドをかけてひたひたと高揚した果てに序奏部のファンファーレが回帰する運びの絶妙なこと。そうでなくても美しく天上的な音楽に内面から湧き溢れるような法悦が加わって聴き手はこれ以上ない至福感に満たされます。

この同じ部分が世の大半の指揮者のもとではどのように響いているかというと、緩徐部はあくまで観照的に、そして唐突にファンファーレが屹立するといった具合にコントラストが強調されたものとなっています。いま試しに朝比奈翁のシカゴ・ライヴで確認しましたが、緩徐部は淡々と、クレッシェンドなど表情的なものは全く排されており、ファンファーレではブラスが音割れも何のそのと云う勢いで炸裂しています。練り絹(緩徐部)と岩石(ブラスのファンファーレ)と申しましょうか、チェリビダッケの場合とはまさしく正反対で、音楽がスパッと断絶しているのです。

しかしこれは翁を含めた多くの指揮者たちがブルックナーの音楽をありのままに鳴らしているのだとみなすべきでしょう。むしろチェリビダッケの演奏における音楽の滑らかで有機的なつながりが秘術の限りを尽くしての「裏技」なのだと思います。

興味深いのは、改訂版によるクナッパーツブッシュの演奏が、チェリビダッケとはまた違ったかたちでこの部分に独自な解釈をしていることです。先に「緩徐部」と書きましたが、クナッパーツブッシュの演奏では(原典版による演奏を通じてわたしたちが「そういうもの」だと思っている)天上的というか観照的というかな音楽のコンテクストが完全に読み替えられており、非常な緊張感を漂わせつつ力強くクレッシェンドし、その終着点としてファンファーレ主題が現れるようになっています。ファンファーレ主題もオーケストレーションがどのように改変されているのか音色はまろやかで、そこには原典版による演奏におけるような対照性はかけらほども見出しえないでしょう。

しかしこのような解釈がクナッパーツブッシュの恣意によるものかといえば答えは否です。指揮者は、蓋し改訂版の指示に忠実に従っているに過ぎません。それだけブルックナーの「ブロック構造」がシャルクたちにとっては前衛的に感じられたということでしょう(ちなみにフルトヴェングラーの演奏における同一部分を比較すると、戦中ライヴにおける無為無策に比して戦後の演奏では、クナッパーツブッシュほど歴然とはしていませんが、初版的解釈への回帰が認められるでしょう)。

チェリビダッケブルックナー演奏を細心に聴いてゆくと、音楽の流れの断絶を厭わないその独自のブロック構造をあるがままに再現することをよしとせず、あくまで音楽全体の流れに有機的な統一感をもたらそうとする姿勢が窺われます。その意味でチェリ様もシャルク、レーヴェやフル様につながる問題意識を共有していたと云えそうです。

ブルックナーの第五というと「武骨」だの「とっつきにくい」だのといったイメージが付きまといがちですが、チェリビダッケの演奏に限ってはそのような評は当てはまりません。それだけ「構造」に対する配慮が入念を極めているのです。チェリビダッケの偉大は、この曲の構造の生硬をシャルク的なオーケストレーションの改変や文脈の派手な読み替えによって和らげるのではなく、後期ブルックナー様式(いわゆるブルックナー・クレッシェンドとか)を援用して、あくまでブルックナーらしさを保ちながら全体に流麗な統一感をもたらしていることにあると思います。