フルトヴェングラーとブルックナー(十二)

遺された録音の使用版を見ますと以下のように一見赤と青が満遍なく混ざり合っているように見えます(ちなみに、同一プログラムの別演奏なら同じ版を使っているに決まってるので省略していますがあしからず)。














1941
Sym.No.4 (BPO; 断片)
レーヴェ版
1941
Sym.No.7 (BPO; 断片)
シャルク版
1942
Sym.No.7 (BPO; 二楽章)
シャルク版
1942
Sym.No.5 (BPO)
原典版
1943
Sym.No.6 (BPO; 一楽章欠)
原典版
1944
Sym.No.8 (VPO)
ハース版
1944
Sym.No.9 (BPO)
原典版
1949
Sym.No.7 (BPO)
シャルク版
1949
Sym.No.8 (BPO)
ハース版
1951
Sym.No.4 (VPO)
レーヴェ版
1951
Sym.No.5 (VPO)
原典版
1951
Sym.No.7 (BPO)
シャルク版
1954
Sym.No.8 (VPO)
シャルク版

しかしですよ。第七のハース版出版が一九四四年まで遅れたことを考慮して、出版以前の演奏記録はペンディングということで仮に省いてみましょう。












1941
Sym.No.4 (BPO; 断片)
レーヴェ版
1942
Sym.No.5 (BPO)
原典版
1943
Sym.No.6 (BPO; 一楽章欠)
原典版
1944
Sym.No.8 (VPO)
ハース版
1944
Sym.No.9 (BPO)
原典版
1949
Sym.No.7 (BPO)
シャルク版
1949
Sym.No.8 (BPO)
ハース版
1951
Sym.No.4 (VPO)
レーヴェ版
1951
Sym.No.5 (VPO)
原典版
1951
Sym.No.7 (BPO)
シャルク版
1954
Sym.No.8 (VPO)
シャルク版

こうすると一目瞭然、前半が真っ青であるのに対して後半では俄然赤が優勢です。サンプル数が少ないので統計的に説得力があるかどうかは措けば、結果としてはけっこう面白いのではないでしょうか。


だいたい一九五〇年を境としてそれ以前が青すなわちハース版の時代、以後が初版回帰の傾向にあるといえそうですが、なにかきっかけのようなものがあったのだろうか、となったとき思い浮かんだのがノヴァークの存在です(一九五一年、第二次原典版全集の最初の仕事として第五や第九のノヴァーク版が出版されています)。


ノヴァークといえばザンクト・フローリアンで朝比奈翁の第七(無論ハース版による)を聴いたとき、演奏家はどの版を使って下さっても結構、と語ったことが知られています。これがハースだったら……とわたしは考えたりするのですが、おそらく、決して良くは思わなかったのではないでしょうか。


ハースの仕事にはどこかしらドグマティックな部分があるように思います(だからこそヴァントの如きファナティックな信奉者も現れるのでしょう)。そもそも、単にハースが失脚した後を継いでというのであれば何も第二次全集を第五、第九から出し始める必要はないわけで、ハースの校訂態度に対する批判、その行き過ぎの是正への期待があってこそノヴァークは全交響曲の再校訂に乗り出したのです。


これはあくまで憶測なのですが、四十年代のフルトヴェングラーはハースに反発しつつも「これがブルックナーの書いた通りである」という錦の御旗を掲げられては強くも出られなかったか、ハースの所見を大幅に取り入れてブルックナーを演奏していたように思われます。思うにそれまで初版を通じて築きあげてきた自らのブルックナー像を全否定されたかのようなショックさえ味わっていたのではないでしょうか。そのような巨匠にとってノヴァークの姿勢がある救いとなったであろうことは想像するに難くありません。一九五四年に巨匠がノヴァーク版の第八の版下を見せてもらったという挿話が事実なのであれば、少なくともそれはノヴァークの仕事に対するフルトヴェングラーの強い関心による以外の何物でもありえないでしょう。


以上はあくまでわたしの推測でしかありませんが、全く筋違いなものでもあるまいと思っています。ともあれ一連の一九五一年録音には自信を取り戻した巨匠が新たな意欲をこめてブルックナーに取り組んだ成果を聴く思いがします。