フルトヴェングラーのブルックナー(十三)

これまでフルトヴェングラーブルックナー演奏が論じられる際、解釈偏差について語られることはあまりにも稀でした。アンチはどれを聴いても拒絶反応を示すのみですしフルキチは何もかもいっしょくたに礼賛。せいぜい一部の演奏に巨匠の衰えを指摘する者があるくらいなものです。

四十年代の演奏の特徴についてはこれまで述べている通りですが、第七のように抒情的な音楽でしかも初版によっている場合でも、初版本来の自由で表情的なフレージングや抑揚が抑制された(わたしの考えでは)「ハース的」な処理を受けています(一九四九年EMI盤)。曲が曲なのでコントラストの強調や劇性は控えめですが、それでも第二楽章のクライマックスなどティンパニを独自に追加してそれを強調していたりします(これはシャルク版によるクナッパーツブッシュやマタチッチの演奏には見られない独自の改変ですが、意外なところで、ベイヌムのデッカ再録音でも全く同じ追加がなされています。ベイヌムフルトヴェングラーのおいしいところを頂いたんですかねえ。まさか……)。

ところが同じ第七の一九五一年カイロ・ライヴを聴くと様相は驚くばかりに一変しています。

こちらの演奏の特徴をひとことで云えば「豊麗な歌」につきるでしょう。しなやかに伸縮するアゴーギグと雄弁な抑揚とがあいまって旋律は情感豊かに波打ちます。さらには、フレーズの結尾の処理が丁寧で、しばしばリタルダントをかけてつぎのテンポを自然に呼び起こしているため音楽になだらかな流露感が生じています。それはいかにも古風な流儀ではあるかもしれませんが、フルトヴェングラーの時代には当然のように行われた手法であって、巨匠にあってはそれを採る方がよほど自然なことなのです。

両者の一楽章を比較すればそれぞれ十九分十四秒、十九分三秒とEMI盤の方が(少しばかりとはいえ)「遅い」のですが、聴感上の印象としてはむしろ後者のほうがゆったりした演奏に聴こえるかと思います。ひとつには存分に歌いこんでいるため音楽の呼吸が深くなっていることもありますし、もうひとつ重要と思われるのは、この演奏では細部のテンポやダイナミクスがこまかく動いているため、全体のコントラストが相対的に弱められていることです。

(この点については、次回第五の同曲異演を比較してもう少し深く突っ込んでみたいと思います)