フルトヴェングラーのブルックナー(十四)

フルトヴェングラーの第五には一九四二年ベルリン・フィル盤と一九五一年ウィーン・フィル盤とがあります。前者は、アンチには総スカンをくらい一部ファンの喝采をほしいままにするという典型的「フルトヴェングラーブルックナー」ですが、後者については「何の変哲もない演奏」という非難が多い一方で「凄まじいことには変わりがない」という意見もあり、評価が分かれています。

この「凄まじいことには変わりない」というのがポイントで、こういう難癖をつけるのはブルックナー演奏にはアッチェレランドは禁物とはなから決めてかかっているハース原理主義者の方々だと思いますが、実際両者を聴いてみると大体同じようなところでアッチェレランドがかかっており、演奏設計自体に大きな変化はありません。

ではどうして戦後の演奏がそこまで「聴き劣り」するのかというと、ここではちょうど一九四九年の第七と反対の現象が起きています――すなわち、原典版のスコアに初版的な表情が盛り込まれているのです。細かいところで表情が濃密につけられていて、フレーズ内部でテンポが自由に伸縮しているためアッチェレランドが突出して目立つということがなくなり、抑揚が豊かな分ダイナミクスの対照がやや曖昧になっています――ただし、乏しい抑揚といい先へ先へと急ぐばかりで呼吸の浅いフレージングといい、細部表現の犠牲の上に成り立った「コントラストのためのコントラスト」という観のあるベルリン・ライヴと比べれば、ですよ。あくまで。

これを要するに、戦中ライヴの方が「分かりやすくドラマティック」なのです。フルトヴェングラーブルックナー演奏というと「凄絶なドラマ性」を云う人が多いですが、凄絶だなんてとんでもない。その程度の耳だから、一九五四年の第八を聴いて「これは偽フルトヴェングラーだ」などと錯誤するんですよ、わたしに言わせりゃ。