シューリヒトのブルックナー/第五交響曲

シューリヒトが指揮するブルックナーの第五を聴きました。ウィーン・フィルとの一九六三年ライヴで、DGGから一度出たきり「幻の名演」と一部で噂になっていた録音です(ALTUS)。

スサマジイ演奏でした。個人的には、良くも悪くも――と付け加えたい誘惑に駆られます。なにしろ改訂版によるクナッパーツブッシュやわれらがフル様と比べてもそのテンポの変化は大胆――というか、極端というか。第一楽章など、少しばかりやりすぎの部類でしょう。しかし三楽章の冴え渡った切れ味は天下一品、最後には聴く者を圧倒するフィナーレのコーダが待っています。こういう演奏こそ、ナマで聴きたかったなあと思わずにはいられません。

さて、これに関する世評を少しばかり拾ってみたところおおよそ二パターンに大別されます。大絶賛の甲に対して乙はいささか懐疑的で「これがシューリヒトのブルックナーとは思えない」といった具合。宇野氏の昔よりシューリヒトはブルックナーの大家として通っていることを思えば、このように評が割れること自体かなり珍しいと云わざるを得ません。

後者の難詰に対しては前者から「シュトゥットガルトでの同曲異演においてもテンポ、解釈はほぼ同様で、これは決して場当たり的な演奏ではない」という反論が寄せられているようです。しかしながら、まことに実証的でもっとも至極な指摘であるにもかかわらずこれは一面の真実でしかないように感じるのはわたしだけでしょうか。というのも某氏の意見は、第七や第八、第九をあのように淡々と指揮したシューリヒトが、なぜ第五ではこんな演奏を繰り広げたのか――という疑問に対しては答えになっていないからです。

この演奏に対する是非はさておいて、両者の間に横たわる隔たりには無視できないものがあることは、誰にも確認できることでしょう。ではそのような相違のよってきたる所以はいずこにあるのか。

宇野御大はというと、スタジオとライヴの違いと見ておられるようです。いかにもそれは無視できないポイントでしょう(第五にスタジオ録音がないことは惜しみても余りあります)。

しかし、「振り分け」ていた部分もあるのではないでしょうか。

シューリヒトは、おそらくこの曲を第四、第七はもちろんのこと、第八や第九と比べても聴衆にとって難解な音楽として認識していたような気がします。

ブルックナー・ファンにもっとも好きな交響曲はと訊ねると多くの人が第五をあげますが、こういう硬派の聴き手が増えたのはここ二、三十年のことでしょう。マーラーといえば巨人か第四――だったのと同じ伝で、五十年代後半になってもEMIのウォルター・レッグはロマンティック以外のブルックナーを録音するのに二の足を踏んでいた――とか(その分デッカやフィリップスが、後発レーベルならではのニッチ戦略でクナッパーツブッシュベイヌムによる交響曲録音を連発していたりしますが)。

ともあれ、一九六三年当時、この曲が多くの聴衆にとって難物であったことは想像するに難くありません。シューリヒトの演奏の、とりわけ両端楽章において顕著なテンポ変化の大胆さは、この曲の構造を少しでも分かりやすく伝えるための演出としての一面があったのではないでしょうか――フルトヴェングラーブルックナーがそうであったように、です。

ステレオ録音を多数残しているのでフルトヴェングラーより新しい世代と錯覚しそうになってしまいますが、実のところはシューリヒトの方が六歳年上。フルトヴェングラークナッパーツブッシュより積極的に原典版による演奏に取り組んでいましたが、この人もブルックナーを最初は改訂版で勉強した世代なのです。