フルトヴェングラーのブルックナー(一〇)

そう考えるとこの演奏で使用版が変更された背景にはもっと積極的な、改訂版で演奏したいというフルトヴェングラーの意思が働いていたとみなすのが自然であるように思われます。蓋しハース版に改訂的表現を持ち込むだけではもはや巨匠の表現欲求は満たされなくなったのです。

そもそも、この盤に偽演の疑いがかかったいわれは「いつものフルトヴェングラーブルックナー」らしくないからということでした。たしかに、あの四十年代の啓蒙的演奏スタイルとは一線を画していますからその限りにおいて間違ってはいないでしょう。しかしわたしにいわせればこちらの演奏の方こそがフルトヴェングラーの真に偉大な個性に満ち溢れていると思います。

わたしが感じるのは、フルトヴェングラーは本当はこんなことをしたかったのであり、やりたかったことをやりたいようにやっているのがこの第八なのだ、ということです。この呼吸感の深さ、しなやかで自由なフレージングと雄弁な抑揚にはもはやハースの影などかけらほども感じられません。さながら水を得た魚の観があり、五年前の演奏ではいかにフルトヴェングラーが自分を抑えていたかを痛感させます。初版によっていたからこそ、巨匠はその本然――改訂版を通して涵養された――を存分に発揮することができたのでしょう。思うに、初版はフルトヴェングラーのうたのふるさとだったのです。