フルトヴェングラーのブランデンブルク協奏曲第五番

ブランデンブルク協奏曲といえば忘れては不可ないのがフルトヴェングラーの弾き振りでしょう。

巨匠もこの曲を気に入っていたものと見えて、録音が二種類遺されています。オケはいずれもウィーン・フィル、フルートはニーダーマイヤーですが、ヴァイオリンが戦中ライヴ(デルタ)においてはシュナイダーハン、戦後の演奏においてはボスコフスキーと異なっています。音質は似たかよったかで、前者の二楽章の欠落を考慮すればまずは後者を聴くべきでしょう――ただしこの一九五〇年ライヴのEMI盤はクラウス=アイヒンガー組の脱臭漂白マスタリングなので、より良い復刻がデルタあたりから出そうな気がしないでもありません(初出の私家盤を以前聴かせてもらったことがあるのですが、その音質はEMI盤とは別物のようでした)。

この演奏の聴き物はなんといってもフルトヴェングラーによるカデンツァです。巨匠のピアノ演奏はシュワルツコップに伴奏したヴォルフの歌曲とこのブランデンブルクくらいしか遺されていませんが、そのすばらしさは夙に内田光子女史の賞賛せるところでした。きわめてゆったりとしたテンポによる開始は、一面、指の回り具合による加減であることは確かでしょうが、その滔然たる広がりには、聴き手を異次元に引きずり込むかのような魔力があります。ダイナミクスの読み替えを伴って音楽はひたひたと昂揚し、その頂点においては限界ぎりぎりの突撃を敢行してさすがはフルトヴェングラーという圧倒的にして巨大な存在感を聴く者の前に刻するのです。しかしこれほど弾き手のやりたいことが如実に伝わってくるピアノも珍しいでしょう。

フルトヴェングラーの主著『音と言葉』にはバッハにまつわる小文が収められていまして、それを紐解けばフルトヴェングラーのバッハ理解がメンデルスゾーンによる「再発見」以来の文脈に沿ったものであることが明らかになりますが、たとえば二楽章を少し聴けば分かるように、その演奏はことさらなドラマ性や深刻趣味とは一線を画して、蓋し巨匠の感じ取ったところの優雅にして荘重な十八世紀の宮廷生活のリズムが現れたものとなっており、ひょっとしたら過激さを競いがちな近年の演奏よりもケーテンの宮廷楽団の精神に近いものなのかもしれないと、ときに思ったり思わなかったりします。少なくともこの演奏の重厚さを現代の演奏と比較して一概に退けるべきものだとは思いません。