余談

もうひとりの「伝統主義者」クナッパーツブッシュが改訂版にこだわり続けた理由をある人は「ワーグナー的な響きが趣味に合うから」といい、また「ハースみたいなナチの犬の仕事が気に食わなかった」とする意見もあります。

それぞれに、もちろん真実をついていると思いますが、せいぜい合わせて一本といったところで、単独で成程と唸らせるような説得力のある説はありません。だからここで冗談半分にわたしも一口仮説をぶちあげてみましょう。

わたしの考えでは、クナッパーツブッシュが初版を使用し続けたのは、この指揮者の練習嫌いのなせる業だったのではないかと。

そう思ったきっかけはフルトヴェングラーの第五戦後ライヴです。先述したように原点版を使用しているにもかかわらず結構自由なフレージングやアクセント付けがなされており、おそらくそれは初版の示唆(直接的なものではないとしても、第四、第九のレーヴェ版や第七、第八のシャルク版にも通低する「初版的なるもの」に依拠する、という意味で)によるものと思われますが、聴いていて思ったのは、いちいち指示をつけるのは手間だったろうなあ、と。

それこそ、初版を使っても表情記号を全く無視してプレーンな演奏をさせる分には別に面倒もないことだと思いますが、のっぺらぼうなハース版のパート譜を見ているオケマンにいちいち自分の望むような表情をつけて弾かせるには、ただ棒を振っていては間に合やしないことは想像するまでもありません(フルトヴェングラーのこの演奏にしても、初版による第四、第七に比べれば表情の徹底度にいささかの遜色があることは否めないでしょう)。

クナッパーツブッシュカフスボタンの動き一つでオケを思うがままに操ったとか云われますが、それでもほんの一、二度のリハーサルでスコアに書いていないリタルダントやらなにやらを徹底させることにはムリがあるでしょう――いやいや、原典版を使っていちいちフリを付けるより初版を指定して「私はこの曲をよく知っているし、君たちも良く知っている」と言い放ち練習をすっぽかす方がずっとクナらしいと思うのはわたしだけでしょうか(笑)。そして、フルトヴェングラーが最晩年に第八を改訂版で指揮したのもクナと同じ理由なのでは――とわたしは考えています。