アラウつながり

さて先日ご登場を願ったアラウが「甘ったるい」(これまたうろ覚え)とか何とか酷評していたコルトーベートーヴェンを聴いてみます。先日ターラからリリースされたピアノ協奏曲第一番です。

世間ではコルトーといえばショパンシューマン、でベートーヴェンの名を思い浮かべる人はあまり多くないと思いますが、最晩年には三十二のソナタ全曲を録音していたといわれるくらいで、その実ベートーヴェンに対する思いはひとかたならぬものがあったようです。しかるにその録音はお蔵入りしてリリースされる気配がまったく見えませんので、今回のピアノ協奏曲が、コルトーがイタに乗せたベートーヴェンのソロ曲では初のお目見えということになります。一九四七年ライヴで、伴奏はVictor Desarzens指揮のローザンヌ室内管です。

管弦楽による序奏の出来栄えからして嬉しくなります。引き締まった歌い口、抉りのきいた陰影感、すがすがしく、それでいて室内オケ離れした味の濃さ。この曲を書いた当時のベートーヴェンの覇気と若々しさを如実に想起させるだけのものがあります。ミケランジェリの名盤、ハイドンのピアノ協奏曲でバックを務めていたコンビなのだから悪かろうはずがないのですが(一部マニアにはティボーのベートーヴェンの協奏曲でつけていた、といった方が通りが良いでしょうか)。

男盛りの生き生きとした躍動感に横溢する序奏のあとだけに、ピアノの入りがまるで脂っけのない、淡々としたフレージングで奏でられるのには虚を衝かれた思いです。まずアラウの重厚なベートーヴェン演奏とは対極的で、「チリ生まれのベルリンっ子」には物足りなく感じられたとしても不思議ではありません。

しかしながら当年とって七十歳のコルトーの音楽の足取り自体には老いの無残さのようなものは感じられず、仮に内面から燃え上がるようなものとか何とかは求められないとしても、瀟洒アゴーギグと柔和で雑味のないピアノの音色とがあいまって、余人のベートーヴェン演奏では耳にした覚えのない独特の美感がそこには湛えられています。アラウのベートーヴェンがタンシチューだとすればコルトーのはお吸い物ですな。ただし、どちらもとびきり上等のですが。

こんなのベートーヴェンじゃねえ、と思う方もあることでしょう。多くの人がベートーヴェンに期待するような要素にはいかにも縁遠いですから――しかしですよ。わたしたち一般の脳裏にあるベートーヴェン像なるものだって、今更チェリ様を持ち出すまでもなくそれはあくまで先入観なのですから、そこから自由になることによって見えてくるものだってあるはずです。

重厚にやろうと思えばいくらでもぶ厚く鳴らすことのできるベートーヴェンの譜面からコルトーは柔らかく澄明な響きを引き出します。若いもんだったらさぞや派手に弾きたくなるであろうオクターヴやら何やらのブラヴーラなパッセージも、まるで腕づくという感じのしない淡々たる弾きぶり。思うに、ショパンシューマンではあれだけ濃厚な演奏をしてのけたコルトーが、ベートーヴェンはこう弾いているというのは伊達や酔狂ではありえません。

内田光子女史によればベートーヴェンの同時代人のブリッジタワーは作曲家のピアノ演奏が「浄いものであった」と述べていたそうですが、コルトーのピアノはその言をどこかで噛みしめている演奏のようにわたしには感じられました。そこに湛えられた透明な哀しみ、これが晩年のコルトーの感じたベートーヴェンだったのです。

何といっても見事なのは二楽章でしょう。三楽章のリズム感にもコルトーらしい洒落っ気が漂っており、ここでは協奏曲のフィナーレらしい生気と快活さとが色を添えています。だけど最後に心に残るのは、コーダの手前のはかないはかないピアニシモの美しさでした。

最後になりましたが、一楽章の最後で何とカデンツァをすっとばしてコーダに突入しています。山っ気がないのか、カデンツァらしいカデンツァを弾くテクがなかったからなのか……というのは冗談として、びっくりしました(途中にも結構即興的と思われるレタッチがちらほらと)。