コルトーのベートーヴェンふたたび
先にわたしは「イタに乗せたベートーヴェンのソロ曲」とわざわざまどろっこしい書き方をしましたが、実はコルトーによるベートーヴェンの録音は以下のように結構あることはあるのです。
(室内楽)
(マスタークラスの模範演奏)
- ピアノ・ソナタ第二十六番〜二十八番、三十番、三十一番
後者は残念ながらいずれも部分的な演奏ですが、ただ的確だというにとどまらない、絶大な説得力を有する名調子もあいまってコルトーの解釈はよく分かります。
この中でとびきりに面白いのが告別ソナタで、コルトーは楽曲の主人公をルドルフ大公からテレーゼ・フォン・ブルンスヴィックに読み替えるという大胆な仮説を主張しています。
『ここにある悲痛な調子、我を忘れるほどの幸福感、別離に打ちひしがれての無気力、こうした感情が、ベートーヴェンからルドルフ大公に向けられたものとは誰も思わないでしょう?』
わたしは告別というと有名なわりに今ひとつ面白くない曲だと思い込んでいたのですがその理由がよく分かりました。わたしがこれまで聴いてきた多くの演奏に求めて得られなかったものが、ここにはあります。
『ベートーヴェンはテヌートを指定している。それはつまりテンポにはこだわらず、気持ちを込めて演奏して欲しいということ』ともコルトーは述べています。アラウあたりからは異論反論が噴き出そうですが、そうすることによって音楽は疑うべくもなく本物の情熱に満たされています。
第二楽章をコルトーはワーグナーの音楽と結びつけていて、トリスタンの第三幕の前奏曲をチラっと弾いているのですが、一瞬にしてあの灰色の憂愁が色濃く立ち込めるあたりはさすがリヒター直伝だけのことはあります。こんなひとにこそ、リスト編曲の愛と死やタンホイザーやを弾いてほしかったのに、と思わずにはいられません。
それにしてもワーグナーの連想など、これまたアラウの憤激を誘うには十分か知れません。しかしベートーヴェンにはロマン派的な一面もあったことは否定しがたいでしょう。たとえばエロイカのフィナーレの最後から二番目の変奏、あれは孤独な青年の自意識の悶え以外の何物でもありえないわけで。
それにコルトーの指の下ではワーグナーはワーグナーの、ベートーヴェンはきちんとベートーヴェンの響きがします。それこそがいちばん肝心なことではないでしょうか。
そういえば全曲演奏でたった一つだけ魅力的なレコードがありました。コルトーの弟子のチアーニによるライヴ録音ですが、これは何と『ここにある悲痛な調子、我を忘れるほどの幸福感、別離に打ちひしがれての無気力……』はルドルフ大公に向けられたものであった(!)という禁断の演奏。情熱的なコルトーに比べるといかにも線が細いのですが、このあやういまでの繊細さもチアーニの持ち味のうちでしょう。