コルトーのベートーヴェン(室内楽編)

コルトーベートーヴェンといえば一昔前は戦前の室内楽録音を聴くことができるのみでした。これらのレコードが世間一般の「コルトーベートーヴェン」観を形成したといえるでしょう。

しかしながら、大公トリオなんか天下御免の名盤ですが、この場合全盛期のカザルスが凄すぎます。魔笛変奏曲にしても、戦前の演奏は、コルトーがカザルスに遠慮してか伴奏伴奏したピアノで、個性はちと希薄です。

コルトーがやりたいようにやっているのはむしろティボーと組んだクロイツェルの方でしょう。水と油のようで、お互いに良く聴いて、触発しあっている、いいコンビです。

しかしコルトーベートーヴェンといえばわたしがまず思い浮かべるのは、一九五八年、プラド音楽祭におけるカザルスとの共演です。

世評によれば『コルトーは感極まって、うまく演奏できなかった』『コルトーの演奏には、カザルスよりも危なっかしいところがあった。うまく音をコントロールできず、ミスをしてしまった』とのこと、コルトーもあくまでカザルスを立てていましたが、実際聴いてみると人の云うことはあまり当てにならないと痛感します。

この演奏を何の予備知識もなく聴いた人は、最初、カザルスのいかにも自信にあふれた歌いっぷりに対してコルトーのピアノは随分よたっているように感じるのではないでしょうか。しかしよくよく聴いてみれば、実はカザルスの方が自信たっぷりによたっているというのが真相であり、コルトーはむしろ非常にうまく合わせているのだということが分かるでしょう。カザルスがコルトーに『君は相変わらずテンポが正確だね』と云ったのは伊達じゃありません。

カザルスは長い演奏歴を享受した音楽家でしたが、チェリストとしての全盛期は意外と短く、二十年代いっぱいまでであったように思います(以降指揮者としての活動が活発になるのも単なる偶然ではありますまい)。音程や運弓などは八十代という年齢を思えばかなりしっかりしているので、コルトーのミスタッチの嵐に比べたらまだまだ元気、と思う方もおられることでしょうが、音色からはすっかり色気が抜けてしまっています。チェロ・ソナタの第三番と魔笛変奏曲はいずれも全盛期の録音が残されているだけに、比較するといかにも厳しいものがあるでしょう。

しかるにコルトーの場合テクニックが崩壊しているにもかかわらずタッチは以前にも増して匂やかで、このライヴは意外に録音が良い分その音色がきちんと伝わってくるのもありがたいです。コルトーによれば会場のピアノは古ぼけたスタインウェイで到底満足の行くものではなかったとのことですが、物理的なハンディは毫も感じられないでしょう。その響きはあくまでコルトーならではのものです。

だから、二人合わせて百六十三歳というこの超高齢デュオですが、わたしはコルトーの方により「現役感」を感じます。この時期のカザルスは、忌憚なく云ってしまえば、一義的には指揮者でしょう(続く)。

(引用は全て『コルトー ティボー カザルス/夢のトリオの軌跡』より)