行き当たりばったり
いま、寝酒のニコラシカを三杯かっくらっていい感じに体が熱くなってきたところです。意識がなくなるのが先かポストし終わるのが先か、一発勝負にでてみます。
というわけで今晩は、コルトーとギーゼキングを分かつものは何か、などと考えながら酒をかっくらっていました。
わたしの考えでは、ギーゼキングは、スタジオ録音のモーツァルトなんかが良い例だと思いますが、自分の弾きたいように弾くことを我慢しているような気がします。
「モーツァルトはロココ・スタイルでは不可ない」
「ベートーヴェンはワーグナーみたいに演奏するべきではない」
「ブルックナーはロマンティックにやっては駄目」
といった具合に、二十世紀の音楽美学は蓋し「すべきでない」の禁欲主義だったのです(最近すっかりほったらかしになってますが、フルトヴェングラーの四十年代のブルックナー演奏もこの範疇に入るでしょう。あんなしょーもない演奏してるようではフル様もブダペストもアーノンクールもいっしょくたですがな)。
……ま、ギーゼキングの場合「好きなようにやり放題」なシューマンというサンクチュアリがあったりするわけですが……
コルトーの場合、あくまで自分のフィルターを通して観じたところの作曲家像を確信を持って弾いています。換言すれば、自分のやりたい音楽とやるべき音楽とが一致しているのです。
こんなことを書いたのもコルトーの弾いたモーツァルトのイ短調ソナタのあまりのすばらしさに悶絶してのことです。なんとまあ大胆にして豊かなファンタジー(最近評判のランドフスカのRCA録音もびっくりです)。コルトーはモーツァルトが好きじゃなかったはずなのですが、しっかり「コルトーのモーツァルト」になってます。リパッティの名演のあとでは何を聴いても無策退屈に思えてしまったこの曲で、久々に興奮しました。