ショパンのマズルカ
SP時代のレコード評論家野村胡堂あらえびすが当時「本場もの」として評価の高かったフリードマンのショパンを酷評していることは『名曲決定盤』の読者には申すまでもありますまいが、一方で、あらえびすはマズルカを目して「この程度の夢のない舞踏曲」にはフリードマンで十分であろうとその演奏を推奨していたりします。
これはわたしに云わせれば、フリードマンの演奏ではマズルカが「この程度の夢のない舞踏曲」に聴こえてしまった――ということなのであり、畢竟フリードマンはその程度のマズルカ弾きだったということになります。マーラーの交響曲より一曲のマズルカの方が広大な宇宙を内包していると高言していたのはホロヴィッツでしたね――少なくともフリードマンの演奏よりホロヴィッツで聴いた方がマズルカは高級な曲に聴こえることには違いありません。
その種における最高のものはその種を超越する、と喝破したのはゲーテですが、それはショパンのマズルカについても云えることでしょう。ショパンの手にかかってマズルカはポーランドの民族舞曲というに留まらぬ芸術作品に昇華されたのであり、フリードマンをはじめとする多くのポーランド勢ピアニストの、マズルカを田舎踊りの水準に無理矢理引きずり落とすような演奏には、聴いていて非常な抵抗をわたしは感じます。
個人的にマズルカといえば最初に思い浮かぶのはソフロニツキーの一九六〇年録音です。ポロネーズがショパンの公的ステートメントであったとすればマズルカには内面の日記の趣があったと思いますが、ソフロニツキーはその線で最高の仕事をなしとげています。ことにop.41-1など、決然たるリズムといい格調の高さといい胸を突き上げるような悲壮美といい、これ以上を求められない逸品です。そしてもう一つの極めつきがop.50-3のマズルカ。濃艶の一語に尽きます。
全集ではフリエールのメロディア録音が頭一つ抜けています。これは一見何の変哲もない演奏に聴こえかねませんが、よくよく耳を傾ければ、これぞオトナの音楽と云いたくなるような奥行きの深い演奏で、ことに初期マズルカなどは比べられるような演奏がちょっと思い浮かびません。
そして最後のとっておきがアンドレ・チャイコフスキーの後期マズルカ集で、同じポーランド勢でもフリードマンの類とは一線を画した逸品です。独特の水っぽい土の香りを含んだスラヴ的の音色、抜群のリズム感、やるせない思いがほとばしる絶妙の歌いくち、と三拍子揃っています。たとえばop.56-3のドラマティックな曲の作り方なども、確かな地力を感じさせるでしょう。泣きたくなるようなすばらしいマズルカです。