もうすぐ十二月ですね

というわけで第九ネタでも。

クンデラの『存在の耐えられない軽さ』中に「俗悪なもの(キッチュ)」論があります――クンデラと第九に何の関わりがあるんだ、とお思いの方もおありでしょう。しかし、

≪世界のすべての人びとの兄弟愛はただ俗悪なもの(キッチュ)の上にのみ形成できるのである≫

この一句を読んでピンと来るのはわたしだけでしょうか。これはまぎれもなく第九のことを云っているとしかわたしには思えません。

キッチュとは、クンデラの見事な定義によれば「それ自身の観点から人間の存在において本質的に受け入れがたいものをすべて除外する」ことです。まあ細かいことは本書に直接当たっていただくとして、人間の存在において本質的に受け入れがたいもの、といっても色々あると思いますが、たとえば、第二次世界大戦下の惨禍はその最たるものでしょう。

先日その演奏について触れたコルトーとカザルスですが、ふたりの命運を分かったのが第二次世界大戦であったことは疑うべくもありません。カザルスが偉大なヒューマニストであったことと同じくらい、コルトーヴィシー政権下のフランスで公的な仕事をしていたことは広く知られる通りです。

コルトーのファンだから云うのではなし、後世の人間として非常時に生きた彼らの行動の是非を裁断する資格はわたしにはないと思うのですが、一つだけ云えることがあるとしたら、カザルスは何ら後ろ暗さを感じることなく「ナチズムは人間性の敵だ」と主張することができたのに対して、戦後のコルトーにはそれをあくまで他人事としてつっぱねることはできなかったであろう――ということです。

誤解を恐れずに云えば、隠遁することによって前者はキッチュであることの免罪符を得たのです。現にその晩年に至るまで、世界の各地で第九を同時に演奏して「この歌が祈りとして、私たちすべての者が望み、待ち受けている平和への祈りとして演奏されること」をカザルスは望んでいたと云います。まさしく「プラハの広場の壇上に立つ上院議員のイメージ」以外の何物でもありますまい。

ソナタの一楽章展開部で、コルトーの痛切なまでに澄みわたった、透明な哀しみを歌い上げるピアノの背後で鳴っているカザルスのチェロが「何も」語っていないことには驚かされます。明らかな同床異夢。

ああ、カザルスは幸福な人だ――とわたしは思わずにはいられませんでした。カザルスにはコルトーの悲哀は終生無縁なものであったし、理解する必要もなければ、することもできなかったのだなあ、と。

……あれ?(どこが第九の話やねん)