今度こそ

第九といえばチェリ、という人はまずいないと思いますが――
チェリの第九には若いときのトリノ・ライヴとミュンヘン・フィルとの共演が遺されています。その間三十年かそこらの歳月を閲しているだけにさまざまな相違点があって、比較すると興味深いです。

まず気付かれるのは、どちらの演奏でも二楽章のトリオが主部より速いことでしょう。EMI盤の解説にチェリ自身による見解があるため詳細はそちらに当たってもらうとして、この解釈はすでに若くして出来上がっていたのです。いま現在でもはっきりいって少数派ですが、五十年代にはなおのこと珍しい例であったことは疑うべくもありません。トリノのお世辞にも上手くない管が四苦八苦しているのが明らかに見て取られますが、全く容赦なし。何と云うか壮絶です。

そしてもう一箇所耳についたのが、イタリア盤のフィナーレ冒頭で金管がリズムを吹いていることです。ワインガルトナー風に金管がメロディーを補強しているのが当たり前だった当時において、これはチェリのほかにはクレンペラーくらいしか敢行していない新機軸であったと思われます。

これらの点からうかがわれるのは、因習的なスコアの読みを排してまっさらなベートーヴェン演奏を成し遂げようと云うチェリビダッケの強い意志でしょう。ベルリン時代のレオノーレ第三番などを聴くと、若々しい情熱こそ明らかなものの個性ははっきりと固まってはおらず、「フルトヴェングラーうつし」と云えば云えなくもない、指揮者というよりオケが音楽をやっているような部分もあったのですが、ここに至ってチェリビダッケフルトヴェングラーの引力圏から脱出しようとしているのです。

むしろ即物的なくらいの演奏です。特に三楽章は脱聖化と言いたいくらいで、これはさすがに聴いていてどうも楽しくないのですが、両端楽章は力強い押し出しで一気に聴かせて、後年のチェリビダッケが構成に難ありとしたこれらの楽章のアラを感じさせません。二楽章の覇気もまた特筆すべきでしょう。熟した味わいには欠けるとしてもこの時代のチェリビダッケならではの意欲にあふれた演奏です。