ミュンヘンの第九

ミュンヘン盤を聴いてまず感じられるのは、かつての熱狂はもはや過去のものとなりにけりということでしょう。特に第一楽章。よそよそしいと云ってもいいくらいで、トリノ盤にひきかえ、チェリ自らの云う構成上のアラが却って耳につくような印象さえあり、さぞやフルトヴェングラーの演奏でこの曲を聴き慣れた向きには物足りないことであろうと思います(これを三回くらい繰り返して聴いたあとでフルトヴェングラー/フィルハーモニアのCDをかけましたが、最初の一分だけでそのことが良く分かります)。

実際、完璧といってもいい二楽章に比してこの楽章の印象が弱いことは否めません。そして三楽章、これもフルトヴェングラーの演奏におけるような情感とドラマ性を期待する耳にはいかにも冷たく響くことでしょう――

しかしこの演奏において真に特異なのはフィナーレで、荒れ狂う序奏に続く低弦によるレチタティーヴォが異様に暗いのです。フルトヴェングラーやシューリヒトといった往年の巨匠たちの演奏における雄弁さとはまさしく対照的で、黒洞々たる虚無が口を開いています。たしか歌詞をつければ

≪違う、私が聴きたいのはこんな音ではない――≫

となるこの音楽が、わたしには、

≪わたしは全ての音という音を聴いてしまった。もう聴きたい音などありはしない≫

と聴こえます――聴く前から『歓喜の歌』が拒絶されてしまっているのです。

それからもベートーヴェンの書割通りに音楽は一応進行しますし、歓喜の歌も登場して低弦はそれにかたちばかりは応えます。しかし指揮者の真意が最初のレチタティーヴォにこそあったことはあまりにも明白でしょう。ここで第一楽章や第三楽章に奇妙な距離感がつきまとっていたことにも何となく納得が行きます。そもそも曲の作りからして否定されるためだけに先行する三楽章が書かれているといやあ云えなくもありませんが、チェリにかかるとこの曲自体を演奏する理由がないということになってしまうのです。

恥を忍んで告白すれば、わたしははじめてこの演奏を聴いたとき、三楽章のうつくしいメロディーを否定する器楽レチタティーヴォフルトヴェングラーの場合と比べてあまりにも淡々としていることにちょっと失望したものです――しかしわたしは何も分かっていなかったのだと云わざるを得ません。蓋し三楽章の世界に未練を抱くにはチェリビダッケの絶望はあまりにも深すぎたのです。