ベートーヴェンのチェロ・ソナタ第三番

ここの続きです)

コルトーとカザルスの一九五八年の共演を聴いていてまず感じるのは、カザルスのペースに合わせながらもコルトーが自らの音楽を存分に主張していることです。同じ魔笛変奏曲でも戦前と戦後では大いに印象が異なります――それだけ壮時のカザルスに対するコルトーの畏敬の念は絶対的なものだったのでしょう。

カザルスはいつものカザルスです。意気軒昂たる運弓と云い、心の底から発せられる唸り声と云い、思い入れたっぷりに歌いこむ余りあってなきがごとしとなっているパルス感と云い。

一方、コルトーを聴いて感嘆せずにはいられないのはその弱音の表現力です。音楽を歌いあげてゆく過程でため息をつくように織り込まれるピアニシモ。ために「中期ベートーヴェン的」な律動感や力強さといった側面が犠牲にされていないとは云えないかも知れません。いかにも、一般の聴き手の期待を満たすのは――たとえば――ロストロポーヴィチ/リヒテルの筋骨隆々たるフィリップス録音の方でしょう。

しかしながら、壮年期のベートーヴェンが書いた音楽を超高齢デュオが奏でているからこその味わいというものもあるのではないでしょうか。たとえば三楽章の冒頭。思い切ってゆったりとしたテンポで陶然と歌われる序奏は、「中期様式」に拘泥するあまり多くの名演奏家たちが看過しているかの感がある豊麗なファンタジーに満ち満ちており、加えてそこにはふたりの巨匠が「そういえばあんなこともあったなあ」と若き日の思い出を懐かしんでいるかのようなノスタルジックな情感が込められています。それでいて、矍鑠たるフィナーレの主部の生気豊かさひとつとって見ても明らかなようにその音楽は決して単純に後ろ向きなものではありません。

わたしにとってとりわけ印象的だったのは一楽章の展開部です。そこまではどちらかといえばカザルスにうまく合わせることに意を用いていたコルトーがここでぐっと場を持ってゆくのが分かります。この巨匠ならではの雄弁きわまるフレージングで丈高く歌い上げられる澄み切った哀しみ――蓋しコルトー白鳥の歌です。

ココに続く)