反時代的ひとりごと

詩人のパステルナークはスクリャービンにも稽古をつけてもらったことがあるとか云うくらいできわめて高い音楽の趣味の持ち主でしたが、シューベルトの音楽は素朴すぎると云って毛嫌いしていたそうで、パステルナークと同居していたわがスターシクはためにその義父の生前はレパートリーにシューベルトの楽曲をよう取り入れなかったと云います。愛らしくも清爽な十三番のソナタや孤絶悲愁の極みであるハ短調即興曲やを聴くにつけ、もっと多くのシューベルトを弾いてほしかった、と思わずにはいられません。

これに関しては、パステルナークにしてシューベルトを理解することはできなかったのか、と問うても無意味というもので、私淑したスクリャービンに通じる高度に洗練された音楽観を詩人が有していたからこそシューベルトの世界を受け入れることができなかったというのが本当でしょう(わたしはスクリャービンシューベルトも大好きですが)。

閑話休題。この年になってわたしは「癒し」とか「ユルさ」といった価値観に毛ほどの価値も見出せない片寄った趣味の人間であることに気がつきました。

わたしはバックハウスがどうも好きになれなくて、あんなゴムの切れたパンツみたいにユルいピアニストのどこがいいんだろうと思って今日の日まで馬齢を重ねてきたのですが、そのユルさが多くの愛好家の好尚にかくも強く訴えかけるのかと納得した次第です。

パステルナークがケチョンケチョンにけなしたからといってシューベルトをつまらない作曲家だと思うひとはいらっしゃいますまい。いわんやわたしのような酔っ払いが好き嫌いで云えば嫌いと云ったからって。