フーガと神秘

ひさびさに可穂様の新作を読みました。といっても別に新しいことはない『フーガと神秘』です。野性時代中山可穂特集号(二〇〇六年十一月号)に掲載されてました。

うーん……

ネタバレになりそうなのでまどろっこしい書き方しかできませんが、わたしは、自分は百パーセント正しくて相手がとことん間違っている、という立ち位置でものを書くということは決して恰好の良いものではないと考えています。

こういう書き方してしまう気持ちというのもあるでしょう。女の人にはこうしか書きようがないのかなあとは思わないでもありません。しかしこれやっちゃったら小説は小説ではなくなってしまいます。

……ネタバレすまいと思ったけどやっぱりあきらめます。

フロイトに言わせると、文化的コードを取り払ってしまえば子供にとって親は最初にして究極の異性だったりするわけで、とすれば結局のところ父子相姦を忌まわしいものとみなす価値観はあくまで相対的なものなのではないでしょうか。そもそもネロとアグリッピナの例もあるように、獣と化したのはかならずしも父親ばかりではありませなんだ(*)。

可穂様に云わせれば晩春やワルキューレの第三幕は語るだに汚らわしいシロモノということになるのでしょうか。しかし、自らの内なるあやういもの、端的にいってデモーニッシュな情念を直視し、あそこまで昇華させた小津やワーグナーの芸術的達成に比して、『フーガと神秘』は一篇のプロパガンダに堕する危険を孕んでいるように思われてなりません。



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(*)

というのもこの父子相姦の問題、実際のところ男に性的対象として見られることへの嫌悪感という中山可穂の読者にはお馴染みのテーマに社会的な禁忌という「忌まわしいコード」を重ね合わせるというかたちで安直に(あえてそう云いましょう)読者の「正義感」を刺戟しようとしているように感じられてならないからです。もしくは「神への怒り」の矛先が男に向けられたとでも云いましょうか。としたら神に原罪を背負わされたことには女も男も変わりないと思うのはわたしだけでしょうか。

同性愛者であるということは選ばれた者の額の刻印であると誇らしく言い放った可穂様はどこへ行ってしまったのでしょう。わたしには、彼女がここで作家であることの矜持を捨てて個人的な情念にあまりにも安易に身を委ねてしまっているように思われて仕方ありません。

(以上追補)