ベルティーニのマーラー

ベルティーニマーラーの第四交響曲を聴きました。許光俊氏が前々から凄い凄いと書いていた、ベルリン・ドイツ響との二〇〇四年ライヴです。

実際に聴いていただけのことはあって氏の解説にはこれ以上何か付け加える余地がありません。正しく述べられている通り「現役感」充分な演奏ぶりで、非常にしなやかでメリハリのある音楽はわたしの記憶の中にある第二交響曲の実演の印象に一致しますし、さらに云えば、ベルティーニとして最初期のマーラー演奏にあたる一九七三年の第六番にまでつながるたしかな一本の線でもあります。たとえば三楽章前半の冴え渡ったドライヴ感は、美しいけれど冗長だと思っていたこの楽章に新しい光を当ててくれました。

しかしこの流麗で生き生きとした音楽の流れに割り込むようにして、夢のように遠く掴みがたい、時間が止まったかのような瞬間がしばしば訪れます。たとえば一楽章のコーダがそう。それこそはベルティーニ最晩年の第四にあって真に印象的なものです。

それでも、この演奏の白眉は疑うべくもなく後半楽章でしょう。三楽章は、動的な前半もさることながら後半の瞑想的な音楽が美しい諦観にみたされていて、美の本質ははかなさであることをこれほど如実に感じさせる例は滅多にありません。蓋しチェリビダッケクープランの墓以来と申し上げておきましょう。

天上の生活を素朴な民衆画風に描いたものかと思っていたフィナーレがまた、後半で一気にテンポが落ちるあたりからまるで別物の、月明かりにほの青く照らされた幻景の静けさにうちひたされています。この美しさはもはや感覚的なものではなく霊的な、もっと云えば神秘の顕現そのものです。

第四はこれまでとりたてて好んで聴く曲ではありませなんだが、こんな音楽だったのか、と驚愕しました。要はわたしの方で勝手にあまり面白みがないと決めつけてかかっていたのです。

ベルティーニは辛うじて実演に間に合った指揮者ですが、今回CDを聴いて、都響をしょっちゅう振っていた頃にもう少し熱心に参会すべきだったなあと今更な後悔にうちひしがれています。