これまた定番ですが

ここの続き)

最後はこれ、と決めていたのがカーゾンウィーン・フィルハーモニー四重奏団のデッカ盤です。

これは大げさではなし、セッション録音の奇跡と云いたくなるような演奏です。何が良いって、まずは顔合わせの妙でしょう。カーゾンが実演でたびたび共演していたのはアマデウスブダペスト(!何てこったい……)だったそうで、ボスコフスキーたちとはゾフィエンザール限定のつきあいだったのかもしれませんが――だからこそかもしれません――一期一会の凄みがこの演奏を特別なものとしており、それはそのままオルメスとフランクとの出会いをもまざまざと想起させるのです。

冒頭からして、弦のヴィブラートの蠱惑的なことと云ったら聴く者なべてを蕩らしこむ誘惑者のそれです(その甘美にはあらず、ギリギリのところで甘ったるさに陥らない匙加減こそは彼らがあの頃のウィーン・フィルのメンバーであったことの証左でしょう)。

そしてこの弦に対するピアノたるや、露に濡れた白薔薇のつぼみのように楚々としてみずみずしく、足あとひとつない朝の雪原を思わせて清浄。弱音の表現力、ニュアンスの豊かさたるや技神に入るものがあります。

この初々しい、純真無垢を絵に描いたようなピアノが、歴戦のつわものの観ある弦の手にかかって、もろともに激しい炎と燃え上がるのです。肉体の最奥から人間の存在を突き動かす、それは疑うべくもなく官能の熱情でしょう。クライマックスは、危険な法悦以外の何物でもありえません。異常なまでに生々しく、それでいて毫も黄表紙本めいたいやらしさを感じさせません。それどころか聴く者をうっとりと陶酔させてくれる演奏でさえないのです。単に甘美というにはあまりにも危険な――だからこそ聴き手を強く惹きつける真実の情熱がそこにはあります。

それにしてもプロデューサーのエリック・スミスの慧眼には舌を巻くほかありません。デッカの名物男カルショーもこの面子でドヴォルザークを録れていますが、出来は雲泥の差。いずれもあの厳しいカーゾンがオーケーを出したテイクであることには変わりないので悪かろう筈はないのですが、こちらは一足す一が二にしかなっていないと申しましょうか――フランクの演奏におけるピアノと四重奏の間の神秘な相乗作用、もしくは化学反応がここでは起きていないのです。

最後になりますがカーゾンにはアマデウスと組んだライヴの同曲異演もあります。しかしこれもデッカ盤と比較しては興醒めというほかない演奏でした。蓋しあれは一度きりの恋だったのです。