ブラームスのピアノ五重奏曲

ブラームスは好きな作曲家ですが、これは勘弁という曲がないでもありません。具体的には第一交響曲と二重協奏曲、そしてピアノ五重奏曲です。

この三曲に共通するのは、いずれもブラームスが「いじりすぎた」曲ということでしょう。ベートーヴェンのレオノーレ序曲第三番とフィデリオ序曲とを比較して≪最初の発想は常に最も自然で最も良い。悟性はまちがえるが感情はあやまたない≫と述べたのはシューマンですが、その第四交響曲に関しては初稿に軍配を上げたブラームスがこと自作の改訂となると拘泥の弊に陥っている――というのは人間が人間であることの皮肉というものでしょうか。

しゃちほこばって自然な情感の流露が感じられない第一交響曲の両端楽章や形骸化し果てた二重協奏曲のフィナーレと比べればピアノ五重奏曲はまだしも聴き手をあまりうんざりさせない出来かしれませんが、そのかわり緩徐楽章が前述二曲に比してえらく落ちます。わたしの考えではブラームスの書いたもっとも印象の薄い緩徐楽章です。ゆえに好き好んでこの曲を聴くことはまずありません。

それでも、たまにこの曲を聴いていて「おっ」と思うときがありまして、それはたいてい、ピアニストではなく弦楽四重奏に耳を奪われてのことが多いように思います。たとえば今回聴いたコンツェルトハウス・クヮルテットのウェストミンスター盤。はっきり云ってピアノのデムスはイマイチで、タッチは生ぬるく雑然としています(これを「温かみ」と評するほどわたしもお人よしじゃあござんせん)。しかしコンツェルトハウスの弦が実に濃密な情感を醸し出していて、同じウィーン・フィルの団内活動でもシュナイダーハンやバリリの四重奏団には求められないこのコクにはいわく云いがたくたまらないものがあります(そういえばバドゥラ=スコダと組んだ「ます」もピアノなどどうでも良くなるような名演でした)。

この曲のディスクでもうひとつ好きなのはカーゾン/アマデウスのライヴ(BBC LEGENDS)ですが、これもどちらかといえばアマデウスを聴く盤でしょう。火を吹くような情熱のほとばしりが圧倒的です。これでこそライヴという出来。