中野翠の『小津ごのみ』

けっこう面白い本でした。ローアングルを深読みしないあたりが凡百の小津本とは一線を画していますな。とりわけ感心したのは「おじさまごっこ」の愉悦を指摘したあたりと東山千恵子へのオマージュです。

しかし、あくまで「このみ」ならぬ感性で書いている本なので?という個所も。

小津映画の男の洋装といえば笠智衆……?ご冗談を。わたしゃ佐分利信の恰幅を断固採りますね。笠智衆の洋装というと『秋日和』でラクダ色のカーディガンを羽織った普段着姿や同じくくつろいだ昭和のおやじファッションの『おはよう』がまず思い浮かびますし、むしろコチラの方が板についている――と思うのはわたしだけではありますまい。

東京物語』の高橋治説に対する反駁も、「ここはこう見るのが正解」と押し付けられているようであまり気持ちの良いもんじゃあございません。小津映画に性的深層心理云々のコジツケをするのが結構なことだとはわたしも思やしませんが(有名な『晩春』の壺も、個人的には、壺は壺、としか思えない)、それでも都築政昭のように小津インポ説をぶちあげるよりはまだしもマシだと信じます。

著者がこの映画の原節子に性的な匂いを感じない根拠としてあげた職場でのそっけない扱いにしても、あれを「言い寄る男という男をすげなくあしらったものだから」と深読みした人がありまして、忌憚なく申し上げて中野女史の五千倍は真に迫った見巧者ぶりと云えましょう。そういったことを含めて、この場面に関しては、著者の読みは筋違いとまでは申しませんが、何か大切なところを見落としているように思われてなりません。

『東京暮色』があまり好きでないというのも、そりゃ好き嫌いは人それぞれというものですが、小津らしくないから――というのはあんまりでは。たしか小津は「ゲラで出してしまった」と悔やんだとか云いますがそれを言い訳と取っては小津に失礼というもの。むしろ小津がどの辺に未練を残してしまったのかを推測するのが監督への供養ともなるのではないでしょうか(個人的には、二女役の有馬稲子が小津の最初に希望していた通りに岸恵子だったら――と思わずにはいられないです)。