エジプト風

田中希代子のとびきりの名演奏というと、サン=サーンスのピアノ協奏曲第五番がまず上げられるのではないかと思います。

――そこの「なんだ、サン=サーンスか」と思ったあなた。わたしも以前はそう思っていたクチです。聴いてビックリしましたよ、あまりすばらしくて。

彼女の協奏曲録音は、モーツァルトハ短調(髭の指揮者M)やラヴェル(渡邉暁夫はともかく、当時の日フィルの管がなあ……)のようにイマイチ共演者に恵まれていない気味がありますが、ここでは名匠ピエール・デルヴォーがバックを務めているのもうれしいです。

一聴、耳を捉えるのはこのピアニストならではの鬼気をはらんだ冴えです。ラザール・レヴィ仕込みのすばらしいテクニックが彼女の演奏にカチッとしたフォルムを与えていますが、それも、あやういまでに多感な内面の奔流が混沌に陥るのを食い止めているにすぎないかの観があります。表出意欲と造形力とがギリギリのところでせめぎあっているその緊張感は、彼女以外のピアニストからはちょっと聴き取ることのできないものです(相澤昭八郎氏の、正気と狂気の分水嶺、という至妙の評がありましたね)。

華やかさの中に凄みがあります。エキゾチックな情熱と高雅な格調がみごとに両立し、タッチといいリズムといい、結晶化しつくしたもの。響きがイマジネイティヴで全く機械的な感じを与えないことも特筆すべきでしょう。演奏の力で曲が一ランク上に聴こえる稀なる一例です。

でだしは緊張感とコントラストが乏しく、コンドラシンの棒もひびきがもやもやとして透明感に欠ける憾みがありますが、だんだん持ち直します。

リヒテルはこの曲が好きだったようで、思い入れの感じられる演奏です。しかし、プロデューサーかエンジニアの類がスタジオでメトロノームを振りかざしてでもいたのだろうか、というくらいテンポが意固地に動きません。サン=サーンス自らが演奏したときもこんな具合だったかもしれなくて、様式的にはこれが正解なのでしょうが、そこに足取りの重さが加わって、少しく異様な雰囲気が漂っています。

ゲンリヒ・ネイガウスが二楽章の面白い絵解きをしています。大先生によればこれはヨセフとポテパルの妻だとか。『色情が高まると、彼の目の前で、白鳥のような美女が悪魔に姿を変える』んですって(ユーリー・ボリソフの『リヒテルは語る』より)。リヒテルの演奏は、あえて抑えたタッチが不穏な空気を醸成していました。

  • ブリュショルリ/ルイ・ド・フロマン/ルクセンブルク放送管(一九五二年ライヴ、DOREMI)

このレーベルの復刻音質に関しては議論がありますが、この演奏はまずまず聴ける部類でしょう。こもった感じがしませんし音色の美しさがかなり伝わります。少し響きの厚みに欠けますが、この演奏に限ってはあまり気になりません。

一楽章の第二主題の、ほのかな歌わせ方が美しいです。ほかにも良いところはそこここにありますが、リズムや仕上げにもう少し端正さがあったらと思います。ちょっと雑で結晶感に乏しいのです。

それと、これも一楽章ですが、第二主題がオーボエ独奏に出るところでことさら奇矯な弾き方をするあたり[8:11]、どこもかしこもソリストがでしゃばらないと気がすまないのだろうかと、このピアニストの知性の程度を真剣に疑わざるを得ません。

世上ではタリアフェロのフィリップス録音が名盤として言上げされますが、わたしは聴いていません。彼女についてはまた改めて……