感覚のズレ

美人女優として一世を風靡したひとがどうしてもキレイには見えない、という経験はおありでしょうか。わたしの場合入江たか子京マチ子がそうです。自分の眼がイカレてるのか、世間がおかしいのかなんて考えたって仕方がない。好き嫌いでいえば全く受け付けないというだけのことなのでしょう。

コルトー門下の才媛として名高いマグダ・タリアフェロもわたしには到底美人には見えないタイプの女性です。同時代の女性ピアニストということであれば、パリ音楽院の少し後輩にあたるユーラ・ギュレールの方がずっと美人だとわたしは思います。

しかのみならず、タリアフェロの場合、人が良い良いというほどのピアニストかどうかも分からない。何がって、独特のクセのあるうたい口――いや、クセというよりは気取りとした方が正確でしょうか、あのカマトトぶったリズムの取り方がどうしようもなく鼻につくのです。タリアフェロを聴くとわたしは決まって、電車に乗っていて香水くさい中年女と隣合わせになってしまったときのあの不快感を思い浮かべます。

もしこれがベル・エポックの趣味好尚だというのであれば、同様な時代的制約の軛の下にあるギュレールやハスキルのピアノが現代にいたるまで生命を失わないのにひきかえてタリアフェロがここまで古びて聴こえるとはどういうわけなのでしょうかねぇ。

――しかし、です。タリアフェロのCDで現在もっとも入手しやすいと思われるのは仏EMIの二枚組 "LES RARISSIMES DE MAGDA TAGLIAFERRO" ですが、この一枚目に収められたファリャ、グラナドスアルベニスを聴いたときは心底驚きました。

あのタリアフェロとは思えないくらいすばらしかったのです。

ここには、彼女のショパンシューマンをあれほど毒していたプレシオジテの陰も形もありません。何もかもが、真率にして鮮烈です。リズムは身体の奥底から泉のように湧き出て、音楽の隅々まで輝かしい生命感で満たしています。大柄で闊達な技巧は冴え渡り、音色も、中欧ものを弾いているときから一皮剥いたように晴れやかで、生彩に富んだもの。スペインものに関してはミケランジェリコルトー、ギュレールの個性的な名演があまたひしめいていますが、それらを差し置いてもタリアフェロをまず聴くべきとさえ思います。

思うに、ここでのタリアフェロは全く「身構え」していないのです。これが彼女の生地のすばらしさなのでしょう――だとすれば、ブラジルからパリにやってきたタリアフェロの、ヨーロッパ・コンプレックスの深さを思わずにはいられません。

ルーマニアからパリに出たエネスコは、周縁地域出自のコンプレックスを強靭な反骨精神に能く転化して孤高のヴィルトゥオーゾとして大成しましたが、タリアフェロに感じられるのはパリの音楽文化に対する媚びを含んだ、無批判な同化姿勢です。同じ南米出身でも、チリに生まれてベルリンに学んだアラウがドイツ人以上にドイツ的なピアニストになったのに対して、タリアフェロはフランス人に輪をかけて浮薄なピアニストになった――とも云えましょう。

さて、件の『エジプト風』はどっちのタリアフェロなのでしょうか。聴いてみないことには何とも云えませんが、正直なところ、見つからないCDを無理して探そうという気にはなれないでいます(グリーンドアのCDでは聴きたくない)。