モーツァルトとミケランジェリ

モーツァルトを聴くとき、ひとはことさら贅沢に陥るものと見えます。優雅なモーツァルト、快活なモーツァルト(なんだったら哀しげなモーツァルトってのも)――モーツァルトといっても色々な演奏があるわけですが、これがベートーヴェンハイドンの場合であれば、それぞれにすばらしい、となって終わるところ、ことモーツァルトに限っては、聴いていて優雅なだけでは何か物足りず、快活一方なモーツァルトにも心からは満足できない、ということになりやすいような気がします。

要は、作曲家と演奏家との間の距離が、他の作曲家の場合よりも格段に気になるのです。

わたしは基本的に雑食派なので、たとえばブルックナーであればチェリ様からフル様まで変にこだわることなく色々聴きますし、趣味のストライクゾーンも、ゴロワノフからハスキルまで、無節操なくらい広いほうだと自分では思っているのですが、モーツァルトに関しては人並み(?)に「何か違う……」とか云いながらCDをとっかえひっかえしがちです。

ミケランジェリモーツァルトは、たぶんダメな人は一分聴いただけで拒否反応を起こすであろうシロモノです。このピアニストはDGG移籍前後を境として冷たく固いスタイルに変化したと云々されますが、今回聴いた一九五一年のライヴはすでに後年の厳しい、あまりにも厳しい完璧主義を先取った恰好で、正直申し上げてわたしも違和感を感じる場面が多かったです。

しかし、それでも聴いていると、たとえようもなく高貴な美を湛えた瞬間が顕現します(たとえば第三楽章の第二主題)――そしてこれは、実はラヴェルハイドンシューマンといった彼の極め付けを聴いていても必ず出会えるとは限らない、「ミケランジェリモーツァルト」ならではの奇跡なのかもしれません。

とある皮肉屋が詩人のマラルメを以下のようにたとえています。

『おそろしく精巧なからだをもち、紫水晶色をした高貴な昆虫である。透明な琥珀の容器に入れられてある。その容器自体が一つの見もので、水晶形をしている』

このモーツァルトを聴いていて、ゆくりなくも思い浮かんだのがその言葉でした。

ちなみに、まだ続きがあります。

『おどろくべきは、こんなにとじこめられているのに、虫がちゃんと生きていることだ』




(*)引用は池内紀編訳『ウィーン世紀末文学選』(岩波文庫)一八七頁より