エッシェンバッハのモーツァルト

ふと思い立ってモーツァルトのピアノ・ソナタ第十二番の同曲異演をいくつか聴いてみたなかに、エッシェンバッハがありました。一九六九年録音ですから、吉田秀和翁に衝撃を与えた東京リサイタルの三年前の演奏にあたります(新潮文庫の『世界のピアニスト』をご参照あれ)。

わたしのことですからそんなに数多くの演奏にあたったわけではありませんが、エッシェンバッハの演奏は、その聴いた中では「手数の多さ」で群を抜いています。タッチのさまざまな使い分け、テンポや強弱の強調されたコントラスト、等々。このピアニスト特有の思いつめたような暗さが、特に二楽章に強く出ています。しょっちゅう聴くにはしんどいですが、感じるところはあります。

一方で、たとえば一楽章の再現部が柔らかな響きの弱音で奏でられるのにはハッとさせられましたが、その後が続きません。全体の脈絡のなかでその弱音が生かされないのです。また、二楽章の表現力に比して両端楽章で短調に転じるような場面の哀感の深さや訴えの力が今ひとつ心に残らないのは、わたしが贅沢なのでしょうか、それとも……

これは一般論になりますが、やりたいことを大方やりつくしたエッシェンバッハよりも、弾いている本人には不満のあるハスキル(※この曲を弾いた録音はありません)の方がえてして聴き手の心に強く印象にのこるのは一体どういうわけなのでしょうか。才能の違い――?それを云っちゃあオシマイですよ。

もっとも、元来が指揮者志望だったエッシェンバッハは、ピアノによる自分ひとりの孤独な音楽作りに行き詰まりを感じていたのかもなあ、という気がしないでもないです。演奏水準の高さにもかかわらず、このモーツァルトからはあまり展望が開けません(たとえば、このまま六十歳になったエッシェンバッハモーツァルトを弾いている姿が、わたしにはちょっと想像がつかないのです)。

ですから、そんなに頻繁にではありませんが、彼のはっちゃけた棒を聴くと、好き嫌いはべつとして、よかったねクリストフ、という気になったりします。