モーツァルトのピアノ・ソナタ第十二番

エッシェンバッハのほかに聴いたなかで、とりわけ良かったのはアニー・フィッシャーの一九八四年ライヴでした(PALEXA)。一九一四年生まれのこのピアニストとしては公開演奏の機会がかなり稀なものとなりつつあった時期、端的にいえば彼女の晩年の演奏にあたります。

みごとな行草体のモーツァルトで、音楽運びは融通無碍、どこにも無駄な力が入っていません。短調に転じる場面のあえかな情感など、ことさら声高に訴えるでもないのに聴く者の心に深くしみ入るようです。モーツァルト弾きとして通ったアニー・フィッシャーですが、このような演奏ができるようになったのはやはりこの時期に至ってのことのように思われます。

白眉は二楽章で、この柔和なカンタービレの美しさは、コルトーの言を借りれば、さながらシューベルトのリートの如しです。

シュナーベルAPR)は、この曲をはじめて聴いた演奏なのでわたしのなかではスタンダードとして位置付けられています。行草体のアニー・フィッシャーに対してこちらは律格ゆたかな楷書を思わせる――としましょうか。このソナタの厚みのあるシンフォニックな響きを堪能させてくれるのはシュナーベルの方です。

田中希代子のレコードもあります(山野楽器)。申し分なく優雅で均整の取れた演奏ですが、ここには彼女の最高の演奏にあった凄みが感じられません。同じCDに収められたハ短調協奏曲とこのソナタとでは、ムンクが病気しているときに描かれた絵と正常な頃の作品くらい落差があります。

このピアニストには、たとえばソフロニツキーやスタニスラフ・ネイガウスの演奏におけるような出来不出来のムラがなく、殆ど破綻を見せず常に安定した技術的水準を示しているのですが、ときどきこのような――形作って魂入れず、とまで云ったら言い過ぎになるのですが――演奏がありますね。どうしたわけか、考えてみたくなる問題です。