エネスコの無伴奏(二)

最初に、エネスコのバッハ演奏四箇条を確認しておくのも悪いことではないでしょう(これも『回想録』より)。


第一条 速度に対して宣戦を布告すること――正しい音の強弱をつかむために。バッハの前奏曲を音の強弱なしに演奏するのは、水が漏れる蛇口に等しい。つまり、強弱をつけずに演奏したら、門外漢が言うように、バッハの前奏曲は無表情で、無味乾燥な混淆体狂詩的なものになるということである。


第二条 バッハの旋律を演奏する場合、できるだけ明晰で論理的な表現を探すこと。たしかに、そこには幾多の不安がついてまわる。その場合は、私の原則を適用すること。つまり旋律が対位法にあてはまる複雑な個所を参照すること。そうすれば、対位法が道を開いてくれる。


第三条 名高い『シャコンヌ』を練習してみて、いくつか変奏をやったあとで、道を見失ったとか、それに溺れてしまったと感じたことはありませんか。もしそうなら、その論理的な組立を壊さずに楽譜を数声音部に置き換えてみること。旋律を四つの譜表に分割すること。各パートの声響に注意すること。そして、第一・第二ソプラノと第一・第二コントラルトを把握すること。こうすればすべてが明瞭となる。


第四条 ささいなことに拘泥してはならない。大筋で事足りる。バッハの時代に用いられた曲がった弓に関する専門家の意見には過大な信頼を置かぬこと。今日では真直ぐな弓が用いられているので、これでできるかぎり上手に弾けるようになること。(後略)

まずひとつ興味深く思われるのは、実際聴いた人ならお分かりかと思いますが、エネスコのテンポはゆったりしているどころかむしろかなり速いものだったことです。単純に全曲の演奏時間を比較すれば、シゲティより二十分以上短くなっています。決してシゲティが遅いわけでもない(たとえば個性派業師のフーベルマンも、大方シゲティに準ずるテンポで演奏しているようです)ので、云ってみれば速度に逆宣戦布告しているようなものです。

ひびきのないスタジオで収録しているため、どうしても速いテンポを取りがちになるという面もあると思います(*)が、それだけの問題でしょうか。たとえば第一パルティータのクーラントのあとのドゥーブルの、何かに憑かれたかのように疾駆する荒々しいリズム――少なくともそれは、弾く分にも聴く分にも快適なテンポを取ることをエネスコが拒絶しているのだと思うほかありません。

こう書くと、なに、エネスコより余程速いテンポで弾いているヴァイオリニストなんかゴマンといるだろうに、とお思いになる方も多いことでしょう。わたしが確認した限りでも、ヨハンナ・マルツィの全曲演奏(EMI)はいくつかの楽章でエネスコに輪をかけて速いテンポを採っています。

しかるにマルツィの演奏を聴くと、実はそんなに速く弾いているようには聴こえなかったりします。タイミングだけを単純比較すれば、先述のドゥーブルがエネスコの[3:14]に対して[2:45]、第二ソナタアレグロ[5:11]に対して[4:27]という歴然とした差があるにもかかわらず(さらに云えば、シゲティは各々[3:43]/[5:39])。

なぜか――わたしが思うに、マルツィは結果としてエネスコの演奏法一条を犯したのです。

エネスコのテンポがタイミング以上に速く聴こえるとすれば、その秘密はテンポに盛り込まれた情報量の多さにあります。決然としたアクセント、はっきりした強弱の対比、そしてそれらの結果としての響きの立体感。急ぎ足のなかでもエネスコは落し物ひとつしていません。

しかるに――わたしもマルツィは好きなヴァイオリニストですし、エネスコと比較して聴くのでなければ不満を感じることもなかったかもしれませんが――彼女の演奏は、強弱が曖昧で、明確なアクセントに欠けるため、申し分なく流麗であるにもかかわらず――いや、だからこそ平板に聞こえるのです。

マルツィの演奏を聴いて、今更のように「そういえばこの曲はヴァイオリン一本のために書かれていたんだな」と思い出しました。一台のヴァイオリンで対位法をやるというその無茶さ加減を、エネスコを聴いているときのわたしはほとんど忘れかけていたのですが。


(*)……(BIDDULPH, LAB 108)で、第一ソナタのフーガの同曲異演を聴くことができます。全曲録音とほぼ同時期に、コンサートのアンコールとして弾かれたライヴ録音です。コンチネンタル盤のタイミングが[5:03]であるのに対して五分三十秒かけて弾かれており、大分シゲティの[5:49]に近づいています。無論、一発録りのスタジオ録音とリラックスした雰囲気のなかで弾かれたアンコールとでは単純に比較することもできませんが……